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その②
「フォークソングとの出会い そして慶應フォークソング時代に」
私が慶應の高校生の頃、我が家にスタンフォード大学の交換留学生フレッド君がホームステイをしていました。彼は東洋哲学を専攻し、本居宣長の研究をしていました。学者の卵のような彼、おとなしそうな真面目な青年でした。そんな彼が勉強の合間にガットギターをつま弾きながら、なにやら英語の素敵な歌を歌っていました。私がアメリカンフォークソングに出会ったきっかけです。
当時の私はエレキギターの世界にドップリ。ベンチャーズ、デュアン・エディ、アストロノーツなどの曲を、レコードを何回も聞いてはコピーしていました。
そんな自分にとって、フレッド君の奏でるギターと歌のアコースティックな響きに、なんとも言えない衝撃を受けたのを覚えています。
高校3年生の時、友人Hがフレッド君のギターのようなガットギターを学校に持ってきました。 放課後の教室でHが弾いてくれたのが“Nobody Knows The Trouble I’ve Seen”という、アメリカでは誰でも知っているスピリチュアルソングでした。 Hはクラシックのように4フィンガーでガットギターを巧みに弾いた後、得意そうに僕に基本テクニックを教えてくれました。
丁度その頃、慶応高校の志木校に、ものすごいグループがいました。 その名は「ニュー・フロンティアーズ」。 キングストン・トリオに傾倒し、高校生にしてほぼ完璧なコピー、しかも自費でLPを出版していました。グループのメンバーであったムーチャンこと新庄駿は、後に私がやっていた「モダン・フォーク・フェローズ」に入りました。ムーチャンが抜けたあとには吉川忠英がニューフロンティアーズに入り、瀬戸竜介、森田玄とプロを目指し本格的に活動を開始。後にEASTと名前を変えてアメリカでプロデビュー。彼等の記事がアメリカの音楽雑誌BILLBORDでも紹介されていたのを覚えています。
話しは前後しますが、慶應大学で私達は「モダン・フォーク・フェローズ」というグループを組んでいましたが、他にもこの大学には前出の「ニュー・フロンティアーズ」、先輩には「フォー・ダイムス」や「ランブリング・バーミンズ」というグループがいました。
「フォー・ダイムス」はニ年先輩の岡村さん、内田さん、山本さん、そして一年先輩の紅一点村上さんという4人グループ。 私達と同じく「ピーター、ポール&マリー」スタイルのグループでした。
「ランブリング・バーミンズ」は一年先輩の北条さんと、当時学習院大学の黒川さんのデュエットグループ。彼らは「ブラザース・フォー」のナンバーをやっていたような気がします。北条さんは、その後㈱電通に就職、スポーツ・文化事業部で、本家ブラザース・フォーの招聘関連の仕事をやっていた様です。
また、「フォー・ダイムス」はメンバーが代わり、詳しいことは分からないのですが、私達と同期の岡部仁君が加わりました。
私達を含め、これらのグループは自主的な活動であり、大学の公認団体ではありませんでしたが、その後「K.W.F.M.A」(Keio World Folk Music Association)というクラブ活動が大学公認団体として発足しました。
このクラブを立ち上げる中心となっていたのは、当時「ニュー・フロンティアーズ」のベースを担当していた福山敦君や、現在私のライブにもゲストとして登場する三宅俊介君ほかの数名のメンバーです。この「K.W.F.M.A」は「ニュー・クリスティ・ミンストレルズ」風のシングアウト系グループ。 彼らの十八番「ソーラン節」のアレンジは秀一でした。 このクラブ創設以来、中心となって頑張っていた福山君は「ニュー・フロンティアーズ」から後にプロのベーシストとして加藤登紀子さんのステージなどで活躍していました。そして、このグループでドラムスを担当していた松本君が、前後して私達「モダンフォーク・フェローズ」のメンバーとして加わりました。
それまでの比較的おとなしいフォークソングから、ママズ&パパスなどフォークロック時代の到来です。
その①
日本フォークソングの産声
流行に敏感な男の子達は「平凡パンチ」や「メンズクラブ」を読みふけり、整髪料はバイタリス、ボタンダウンのシャツにバミューダショーツ。女の子は横浜元町のフクゾーのトレーナー着て銀座みゆき通りや湘南を闊歩していた1960年代初頭。アイビーファッションとともにアメリカからモダン・フォークソングという素敵なジャンルの音楽が日本に上陸した。その後、’60年代中期からほんの数年間、一瞬の音楽シーンを飾った日本のフォークミュージック誕生である。
当時、ほとんどの学生バンドは「キングストン・トリオ」「ブラザース・フォー」「ピーター・ポール・アンドマリー」(以後P,P&M)などアメリカのフォークソングのコピーを楽しんでいました。
アマチュアバンドが自主コンサートを定期的に開催。「スチューデント・フェスティバル」「ジュニア・ジャンボリー」「ファミリー・ジャンボリー」ほか学生サークルが積極的にコンサート活動を展開していた。
そんな仲間達から、後にプロに転向した人も沢山いた。
マイク真木さんは「モダン・フォーク・クワルテット」(アメリカにも同名のバンドがあります)という学生バンドのリードヴォーカルだった。「バラが咲いた」でデビューしたのが1966年だ。
森山良子さんは成城大学の可憐な女子大生、ジョン・バエズのコピーが得意で、当時としてはめずらしい女性のソロの弾き語りで活躍していた。
「海は恋してる」の「ザ・リガニーズ」、「小さな日記」の「フォー・セインツ」、「若者たち」の「ブロードサイド・フォー」、「白いブランコ」の「ビリー・バンバン」、みんな当時はアマチュアバンドだった。あの「オフコース」もアマチュアバンドでP,P&Mのレパートリーを歌っていた。
アコースティックギターリストで有名な石川鷹彦さん、吉川忠英さんも当時から注目を浴びていた。
その後、レコード会社、放送局、プロダクション、プロモーターなど、日本の音楽界に大きな影響を与える人たちが大勢いた。
ちょっと異色では、直木賞作家で後に火事で他界した景山民夫君は当時、私達のバンド「モダン・フォーク・フェローズ」でウッドベースと司会を担当していた。
1960年代の終わりに反戦フォークやプロテストソングが台頭するまでのほんの数年間、これらアメリカン・モダン・フォークの美しいメロディとハーモニーを多くの若者が楽しんでいた。
(このコラムは2000年10月からしばらくの間、筆者のブログで連載した『ひまな時に読む音楽雑話』を編集、加筆したものです。)