変貌の鎌倉山 後編
「大邸宅」
写真は、ここ数年で話題の「無理やり建築」の大邸宅。こんな所に、とびっくりしたのは、バス通り沿いの石垣をくずして建てた、巨大な家だ。 散歩仲間の情報によれば最近見かけなくなった女優の高木美保のご主人(台湾国籍の大金持ち)が建てたらしい。屋上には愛犬用のプールもあるという。石垣を崩す工事から2年以上もかけ、数億円もかけて建てたのに現在は誰も住んでいないという。不気味な佇まい。もちろん表札も出ていない。
大邸宅では、最近テレビで見なくなった、みのもんた邸。まるでゴルフ場のクラブハウスのようだ。深夜でもこうこうと明るい室内照明が光っている。
フラワーアーティストという不思議な肩書を持つ假屋崎省吾も引っ越してきた。彼も出番は大分少なくなっている。この邸宅のシンボルだったツリーハウス(写真)は、彼が引っ越してきた途端に取り外された。素敵なガレージもなくなり、そこには現在超ノッポの家を建築中。背伸びして海を見たいのだろうか。
そのほか、やはり出番が少なくなっているタレントのテリー伊東も近くにいるようだが、詳しい場所はしらない。
そしてこの人も、最近活躍していないようだが元NHKのニュースキャスターで政治家の宮崎緑の自宅は、それほど大きくはないが、四六時中門前に警官が一人いるのは異様だ。
売れなくなった有名人は鎌倉山がお好きなようだ。
大邸宅と言えば、鎌倉山神社の向かい側に、異様にデカい家が建った。母屋の他に二棟の別棟もある。お寺ではなさそうだが、鐘つき堂もあり、多くの灯籠が並んでいる。噂によれば、大金持ちの外人だそうだ。相当な日本かぶれなのだろうか。
我が家のすぐ近くには、昔のオペラ歌手藤原義江の自宅があった。暖炉が2つもある素敵な家だったが、取り壊され近代建築になり、今は台湾人の所有になっている。
見晴らしバス停の隣接地、そして更に上の土地も工事中。これから大邸宅ができるようだ。
散歩のたびにこんなことが気になるのは、年金爺のヒガミなのか!
変貌の鎌倉山 前編
「分散化」
毎朝の散歩、気になるのは変貌する鎌倉山だ。
昔の大きな家が壊され、ある日、そこに重機がはいり開発が始まる。しばらくすると、売出し中の看板が立ち、売れたところから徐々に家が建ち始める。これらの過程を見るのも散歩の楽しみのひとつになっている。
具体的には、昔は立派な「日立山荘」があった広大な土地には、現在9軒の家が建っている。
家の1/3ぐらいが崖から飛び出して宙に浮いているような家。
おそらく、すべて特注で作らせたと思われる凝ったフェンスに囲まれた庭をもつ家など、駒は小さく分散したが、それぞれ、なかなか凝った家が多い。そしてガレージには外車が並ぶ。
現在開発中はバス通り沿いに集中して3箇所。写真は手前が三軒に分散し、既に小洒落た家が並ぶ、その奥に見えるのが現在開発中の土地だ。手前に写っている赤い自動車はテスラ、写真では見えないが、その手前のガレージにはミニとランドローバーがならび、さらに手前の家にはコンバーティブルの古いベンツが鎮座している。
昨今の経済環境から、広大な土地や邸宅を維持できず、このような細分化は致し方ないとも思うが、開発の度に桜や多くの木が切られ、緑が少なくなっているのは嘆かわしいことだ。(続く)
広町緑地の大桜
桜の季節、毎年楽しみにしているのが、広町緑地の大桜だ。今年も4/2に行った。自宅から歩いて20分で緑地の鎌倉山入口につく。そこから森の中を約10分歩いて目指す巨木に到着。その堂々たる姿には、いつも圧倒される。樹齢200 年以上と言われているこの大桜、種類は山桜だろう。染井吉野より開花が少し早い。今年は少し出遅れたようだ。下の方は既に葉桜になっていた。
20年ぐらい前に、この緑地に宅地開発の計画があったが、反対運動が起こり、論議の末、鎌倉市が買い上げて自然公園とした。
私が初めてこの大桜を見たのは、さらに遡ること、今から30年以上も前だ。その頃はもっと大きかったように思うが、その後に剪定などの管理が進んだのだろう、樹形は以前より整った。
今回は、ここから更に足を伸ばして御所谷入口まで、約40分歩いた。途中の湿地帯には木道が整備され、管理事務所そばの芝生広場では、幼稚園の子どもたちが遊んだり、お弁当を広げている御婦人達もいた。
帰路は、津村からバスで帰宅。全工程2時間8千歩強の散策だった。
のどかな春の日に爽やかな風を胸いっぱい吸い込んだ。何故か心が豊かになったような気がする。
体調管理は早朝散歩
先日、カンボジアのアンコール・ワットに行った。遺跡はすべて徒歩での観光となる。毎朝散歩しているので体力に自信はあったものの気温36度のカンカン照りのなか、何時間も歩くのは流石にこたえた。広大な敷地を、汗を拭き拭き一日2万歩も歩いた日もあった。
帰国翌日の朝、いつものコースを散歩。なにやら足が軽々と進む気がした。カンボジアでトレーニングをしてきたようなものだ。
毎朝の散歩、ここ鎌倉山は階段も多い、坂を下っては登る道も多い。その朝によって、それが苦痛に感じるときもあれば、らくらくとこなすときもある。それが私の体調管理になっている。
いろいろな道を歩くが、一番多いのは「鎌倉山神社」巡回コース、約1時間、6️千歩強のコースだ。時々、大股で歩いたり、調子がいい時は小走りしてみたり、それをする気になるか否かで体調がわかる。
一番つらいのは、散歩の途中で便意を感じたときだ。この辺りには公衆トイレはない。早朝なので知り合いの家に飛び込むこともできない。そういう時は、すぐに踵を返して帰宅することになる。なんとか我慢して帰宅。すぐさまトイレに駆け込む。ズボンを脱ぐのもハラハラしながら、なんとか間に合い、用を済ませたときの開放感。
そのあとは反省。「やっぱり、昨夜は飲みすぎた!」となるのである。
なんでも、ほどほどにとは思っているものの、自己規制がはずれると翌朝の散歩はつらいのです。
不便の効用 その②
2/4の当ページに鎌倉山の交通事情について書いたが、今回はお店について触れる。
ここ鎌倉山全体が風致地区となっていることもあり、お店と呼べるものは数少ない。
飲食関連は有名な「ローストビーフ鎌倉山」や「檑亭」、他にも最近話題になっている(らしい)「ル・ミリュウ」など数店あるが、何と言っても「喫茶マウンテン」(写真)は当地を象徴する店だろう。1985年(昭和60年)に開店したと言うから来年で40年となる。もともとは網野商店という雑貨店で、日用品から卵や駄菓子も売っていたらしい。この店から見れば他の飲食店はみな新参者だ。
高価で敷居が高い店、看板料理よりもお庭が売り物の店、旨い不味い、それぞれ評価は別として、それなりの飲食店はあるものの、なんとも不便なのは商店だ。
日常生活に関する商店はほとんどない。以前は酒屋や美味しいパン屋もあったが、現在は米屋と花屋があるのみだ。
一時は生鮮品を積んだ小型トラックがロータリーのそばまで来たこともあった。現在は食料品、日用雑貨も含め、山を降りなければどうすることも出来ないので、ほとんどの住民は車で買い物に行く。
そんななか、実兄は80歳をすぎ、「無車修行」と称して、不便なバスと自らの足でどこにでも行っているようだ。
毎日のメシぐらい、話題のウーバーイーツや宅配の食事など頼めばいいと思うのだが、味は期待できないし、歳のせいもあり、なんとなく抵抗があるので、まだ使ったことはない。
こんな不便さを差し引いても、毎朝の鳥の声、海、山の景観など、ここ鎌倉山の素晴らしい自然に勝るものはない。
竹の小路
日本庭園には竹と苔がよく似合う。鎌倉で「竹」と言えば報国寺が有名だ。「竹寺」とも呼ばれている。
ここ鎌倉山一帯にも、竹はいろいろな所に生えている。
写真は私が好きな竹の小路だ。土地の人以外には殆ど知られていない小路だ。山側からこの道に入る二箇所の入口さえ、普通の人にはわからないだろう。
人ひとりがやっと通ることができる道で、永い間にふりつもった竹の葉がつみ重なって出来た道は、歩くとフカフカと柔らかく、歩いていても気持ち良い。
鎌倉には孟宗竹が多いが、ここに生えている竹は、真竹というのか詳しいことは知らないが、いわゆる普通の竹である。ちょっとした竹細工や七夕飾り、正月飾りを作るには手頃でいい。
木工仲間のM先輩は、ここの竹で笛を作るのに凝っていた頃がある。毎年、こどもの日を挟んだ連休に「子供工作教室」を開いて、子供に笛作りを教えていたが、教えるより自分がハマっていたようだ。M邸の前を通るとピー・ポーと自作の笛の音が聞こえていたのが懐かしい。
彼も、はじめは、なかなかうまく鳴らなかったものの、コツを得て慣れてくるとずいぶんいろいろな笛を作っていた。いくつかの笛をあわせて蒸気機関車の汽笛のように響く笛や、南米の笛「ケーナ」まがいの笛も作っていた。助手の私も尺八のような大きな笛を作ったことがある。すべて、この小路の脇に生えている竹で作った。
近所の子供達はだんだんと大きくなり、工作教室にも来なくなった。並行してM先輩の笛熱も冷めた。
先日、久しぶりに、この「竹の小路」を歩いた。当時のいろいろな思い出が蘇り、楽しい散歩だった。
昭和初期の地図で見る鎌倉山第二弾。
(地図をクリックすると大きな地図が見られます)
赤い丸で囲ったところには「交詢閣」、通称「鎌倉山ロッジ」と呼ばれた社交場があった。現在の「見晴らし」バス停の横の階段を登った所だ。当時のバス停の名前も「交詢閣前」だったらしい。
私が小学生の頃だが、父がここから近い所、今のみのもんた邸の隣接地に小さな土地を持っていた。よく家族で草刈りに行き、帰りに、このロッジでお茶を飲んだのを微かに覚えている。
米山尚志著「鎌倉山正史」(非売品)によれば、銀座にある「交詢社」が関東大震災で焼けたあと、古い電柱を組み立ててロッジ風の建物を建て、それを後に、ここ鎌倉山に移築したらしい。
食事は帝国ホテルが担当し、鎌倉山のシンボルと同時に湘南地方の近代的な社交場として話題になった、とのこと。
いつ頃、閉館したのかはわからないが、現在は普通の大きな家が建っているものの、長いこと空き家になっている。こんな眺めの良い素晴らしい土地なのに、なんとももったいない話だ。
階段の下「中川殿」と書いてある所は、東京赤坂を代表する料亭「中川」の別邸だったらしい。赤坂では吉田茂ほか大物政治家が密談していたというから、もしかしたら彼らも、ここ鎌倉山に来ていたかもしれない。
その中川邸の脇の道を入り、大きくカーブしている左側が、現在のみのもんた邸である。私の家からも近いのだが、彼に会ったことはない。
この辺り一帯は、私の毎朝の散歩道でもある。現在さらに開発が進んでいる。変わりゆく鎌倉山、ちょっと淋しい気分がする。
鎌倉山に温泉が
ここに引っ越して約30年、鎌倉山について、いろいろ知りたい。この地が気に入っているし、いろいろな思い出もある。
そんなことから、手に入る限りいろいろな資料を収集してきた。それらの中に、昭和初期の開発当時の地図の複製がある。改めて、ルーペに頼りながら眺めてみた
上の図は、その一部分、鎌倉山ロータリー付近を切り取ったものだ。(地図をクリックすると大きな地図が見られます)
バス停には小屋があり「鎌倉山停留所」と記されている。その横には「便所」と書かれている。こんなところに公衆便所があったとは知らなかった。
現在は石碑が立っているロータリーの中心には噴水があったようだ。その左側には、ここ一帯の住宅開発の事務所があり、その後ろには、なんとベビーゴルフ場があったらしい。現在は水道局の資材置き場になっている所だ。ポストは現在とは反対の左側にあったらしい。
噴水の右側、現在は喫茶店がある場所には「日用品購買所」があり、驚いたことに、その隣は「テニスコート」と書いてある。
更に、びっくりするのは、このロータリーからわずか右に移動したあたりに、温泉マークと建物のイラストがある。そこは「鎌倉山温泉 清風園」と書かれている。以前、このあたりに沢山のタイルの破片が落ちているのを見たことがある。それらは温泉の浴槽や壁に使われていたものだろう。
このあたりが、鎌倉山開発事業のシンボル的な場所だったことが伺われる。
昭和初期としては、大事業だったに違いない。
噴水を中心に、テニスコート、ベビーゴルフ、温泉など、今で言うリゾート開発のようなものだったのだろう。
この古い地図を見ていると、当時にタイムスリップしてみたくなる。
長くなるので、今回は、このぐらいにして、他にも、いろいろと興味をそそられることがあるので、それらは改めてご紹介することとする。
都会人が感じる鎌倉
1月初旬は体調が悪いこともあり、遅読の私にしてはめずらしく、沢山の本を読んだ。その中の一冊、小川 糸著「今日の空の色」というエッセイ集に鎌倉についてのことが日記風に書いてある。
作者は都内のマンションをリフォームする間、ひと夏を鎌倉で過ごす。都内以外に居を構えるのは初めてだ。
都会人が感じる鎌倉が面白いので、少し長くなるが、以下に紹介する。
<新生活 6月4日>
『ここは、東京の住環境よりも圧倒的に緑が多くて、ものすごーく気持ちがいい。(中略)私が選んだのは、駅から離れた、山の方の家。(もしかしたら鎌倉山周辺かもしれない)
近くに小さな川が流れているので、その川沿いを少し緊張しながら歩いた。すると、ところどころに、人が集まっている。なんだろうと思ったら、ホタルだった。(中略)
ここには、昼と夜の境界線がしっかりあって、夜はきちんと真っ暗になる。そして、朝は方々から鳥の声が響いてきて、賑やかだ』
<ご近所さん6月7日>
『鎌倉に越してきて5日、こちらでの生活にも、だいぶ慣れてきた。東京には東京の時間が流れているように、鎌倉には鎌倉の時間が流れている。(中略)お茶を飲んだら、ゴミを出しに行く。いつでも好きな時に出しに行ける東京のマンション暮らしとは勝手が違う。曜日ごとに決められたゴミを、その日の朝、出しに行くのだ。』
<ただいま 6月29日>
『ほんの一月前まで東京に暮らしていたなんて、信じられない。東京にいると、勘が鈍るし、失うものもすごく多いと実感した。(中略)
今日の鎌倉は、暑いんだけど、木陰に入ると涼しげな風が吹いて気持ちよかった。』
※その後、マンションのリフォームも終了し都内に戻った著者は、鎌倉を懐かしむ。
<鎌倉シック10月15日>
『鎌倉の暮らしが懐かしい。もう引っ越したというのに、つい先日も鎌倉に行ってきた。湘南新宿ラインに乗ってしまえば、あっという間。だけど、同じ道を歩いているのに、鎌倉に家がある時と、東京から行った時では、気持ちが全く違うのだ。鎌倉に住んでいた時は、たとえ仮住まいでも、地元住民としての自負があった。でも今は、よそから遊びに来ている観光客にしかなれない。それが少し、淋しかった。』
著者は鎌倉に仮住まいのあいだに、座禅の体験、八幡様のぼんぼり祭り、骨董市などいろんな体験をしている。そしてイタリア料理、フランス料理、鰻屋もふくめ精力的に鎌倉を楽しんだようだ。
若者向きのエッセイ集だが、あっという間にスラスラ読めて、それなりに面白かった。
不便の効用
「お宅の最寄り駅はどこですか」、と聞かれることがある。いつも一瞬、答えに窮する。「駅」というからには鉄道を思い浮かべる。最も近い駅は湘南モノレールの「湘南深沢」という駅だ。しかし、ここで下車したら、ダラダラと続く坂道を約20分も登らないと我が家には到着できない。下るときは15分ぐらいだが、はたしてこれを「最寄り駅」と言えるのだろうか。なんとなく「最寄り駅」といえばせいぜい徒歩10分前後というイメージが有るのだが。
拙宅に一番近い公共交通機関といえばバスになる。鎌倉山バス停から大船、鎌倉、江ノ島と三方向のバスが利用できる。しかし、最近の人手不足のせいで、運転手が不足しているのだろう。時刻表改定の度に本数が減る。現在、鎌倉駅行、大船駅行とも一時間に2本しかない。江ノ島行の休日運行に至っては一日に6本しかない。しかも始発が10:23、終バスは15:43だ。
必然的に、住民は自家用車を利用する。そのせいか、家族数にもよるのだろうが、2台の車を所有している家が目立つ。
ところが、私のような酒好きは、外で呑むことが多いので車は利用できない。
都内で昔の仲間と飲んだりすると、いつも帰りのことが気になる。大船から鎌倉山までの最終バスは22:50だ。ということは遅くとも夜9時すぎには都内を出ねばならない。ちょうどその頃、「じゃ二軒目に行こうか」、という頃である。仕方がないので、一足先に失礼することになる。これを逃すとモノレールを利用し、20分の坂道を歩いてのぼるか、タクシーの長蛇の列に30分以上並ぶか、どちらかしかない。どちらも、真冬の寒い夜や雨ふる夜にはつらい。
以上、苦言を呈してきたように取られると思うが、この不便さを拭ってもさらに素晴らしい自然と環境が、ここ鎌倉山にはある。以前も書いたが、毎日の散歩もそうだ。四季折々の自然に触れながらの生活は素晴らしい
この年になると、正直ちょっとやせ我慢もあるが、この「不便の効用」に勝るものなし。
今朝も、遠くに真っ白な富士が朝日に輝いている。
(240202)
遅めの初詣
毎年、年のはじめには鎌倉山から鵠沼稲荷神社まで歩く。今年は暮れからの体調不良で遅れたが、なんとか今月中に間に合った。
コースは、鎌倉山を下り、西鎌倉、片瀬山、江ノ電鵠沼駅、母校の湘南学園、小田急鵠沼海岸駅を通過し、鵠沼稲荷神社までの約6キロだ。
2010年の正月からこの「歩く初詣」を始めた。途中2回休んでいるので今年は13回目となる。毎年記録を取っているが、歩くコースにより多少の差があるものの、いつも大体1時間半から40分、約1万1千歩前後だ。
途中で色々な思い出の場所を通る。江ノ電鵠沼駅の近くには女房の実家があった。「松が岡」あたりは近代的な住宅に囲まれるように昔の大邸宅もいくつか点在している。その名のとおり、開発で徐々に少なくはなっているものの、お屋敷の中には黒松の大木が目立つ。
母校「湘南学園」の周辺には友達や先生の家もあった。小田急鵠沼海岸駅から海に通じる道は、いまやサーファー天国と化した。このあたりには、その昔、武者小路実篤、与謝野晶子、徳富蘆花、芥川龍之介など多くの文人が逗留したという旅館「東屋(あずまや)」があった。今は史跡の石碑が立つだけだ。そのすぐそばには三千坪はあろうかという国分家別荘があった。今は国分グループ寮となっていたが、当時の懐かしい西洋館は残っていた。そして私が育った家の前を通れば、数分で目的の神社に到着する。
いつもは年初に来ていたので、参拝者も多く、長い列に並んでの参拝だったが、この時期になれば、ほとんど誰もいない。境内には猫が気持ちよさそうに日向ぼっこをしていた。コロナの影響でここ三年ほど外されていた鈴をならす鈴緒も綺麗な新品に変わっていた。
さっそく参拝、例年通り神棚にお祀りする御札を購入。そして、これも毎年のことだがおみくじを引く。今年は「中吉」だった。気になる病気は「回復のきざし」とある。最後に「幸運は以外に近くにある」とのこと。まあまあ、今年もなんとか良い年になりそうだ。
ちょっと疲れた1万歩。このあとのビールが旨いのだ。続きは「湘南を食い尽くす」のページをご覧あれ。
(240128)
複雑なゴミ出し
他の地域は知らないが、ここ鎌倉市のゴミの分類は、とても複雑だ。
以下、私の住んでいる地域の一週間のゴミ出しの献立を書いてみる。
月曜は4分類
1:紙(再生紙の原料になるので汚い紙は捨てられない)
2:ダンボール、3:布、4:剪定ゴミ
火曜:可燃ごみ(生ゴミも含む)
水曜:ペットボトル(透明なものだけ、ラベルを剥がし、蓋は翌日のプラごみとなる)
木曜は3分類。1:プラごみ、2:缶、3:瓶
金曜:可燃ごみ
この他に第1水曜には、電池、ガス抜きスプレー缶、不燃ごみ、ガラスなどの危険ゴミを分別する。第3水曜にはバケツや玩具などの樹脂製のゴミを出す。
こうしてみると、なんと14種類に分別しなければならないことになる。その上、市の指定する有料ゴミ袋(写真)に入れなければならないものと、普通のゴミ袋で捨てられるものの分類もある。間違えると、黄色の紙に注意書きがあり、その場に置き去りにされる。ご近所には良い恥さらしとなる。分別がわからない場合は市のホームページに、あいうえお順に分類した表をみればわかりやすい。これが実に詳細・緻密な分類になっていて感心するぐらいだ。
このおかげで鎌倉市は全国有数の資源再生率を誇っているという。例えば、月曜日に捨てられた剪定ゴミは、大規模な装置で堆肥となり、市役所で無料でもらうことができる。
私は別に文句を言っているわけではない。反対にこのご時世、そのような地区に生活していることを誇りにも思うぐらいだ。(ちょっと面倒くさいこともあるけれど!)
面白いことに、このシステムが1週間の生活リズムにも影響する。
私の場合、火曜と金曜は生ゴミが出せるので、その前日の月曜と木曜の晩はなるべく魚を食べることにしている。週末は庭の手入れをし、月曜の剪定ゴミにそなえる、という具合だ。
ただ、一人暮らしの老人や障害のある方は大変だろうな、と気になることも事実だ。
環境問題が叫ばれてから何十年。私のような爺も、複雑なごみシステムに協力することで、すこしはお役に立っているようだ。
(240121)
散歩天国
ここ、鎌倉山は散歩天国だ。近くには夫婦池(めおといけ)公園、そして広大な広街(ひろまち)緑地という自然公園もある。
バス通り以外は、交通量も少なく安心して散歩ができる。眺望も素晴らしい。西には富士山から伊豆半島が一望できる。南に目を移せば眼下に江ノ島、水平線には伊豆大島、天気が良ければ利島までは見える。さらに東は三浦半島も一望できる。
早朝の散歩は季節ごとに鳥の鳴き声が途絶えることはない。鶯、雀、ガビチョウ、小綬鶏(こじゅけい)など競い合うように鳴いている。
ただ、難点といえば、場所がら坂や階段が多い。どこにゆくにも一度は上り坂がある。体への負荷も良しと、せっせと歩く。
私は、雨が降らない限り毎朝5時半には家をでて小一時間の散歩をする。季節の移ろいを感じながら、その時の気分で色々なコースを歩く。春は咲き誇る桜並木を見ながら、夏は蝉時雨(せみしぐれ)を耳に、海からの爽やかな涼風が肌に気持ち良い。秋には大銀杏の紅葉が蒼空に染み渡る。そして冬は空に瞬くオリオン座を見ながらの散歩だ。
2020年5月から散歩の記録をとっている。だいたい一月で150キロぐらいを歩いている。昨年(2023)暮れに通算6000キロを超えた。77歳の私としては、なんとか今年中に7700キロを達成したいものだ。
ところが、病気知らずの私としてはめずらしく、昨年末に体調を崩したこともあり、最近は早朝散歩は寒いこともあり怠けている。
毎年始、鵠沼海岸の稲荷神社まで歩いて行った初詣もいまだに行くことができていない。さて、こんな調子ではたして77歳7700キロの目標が叶うのか、多少怪しくなってきたが、暖かくなったら精一杯頑張るしかない、と思う今日このごろである。
(240114)