ちょっとニッチな

音楽コラム

「フォークソング」

以前のコラムは、下の方にスライドすれば見られます。

14「モダンフォーク・フェローズ」と「ベッツィー&クリス」の不思議な縁

19697月、ハワイから「サウンド・オブ・ヤング・ハワイアンズ」というグループが来日した。ハワイのカイルア・ハイスクールの生徒達約30名の若い音楽使節団だ。このグループの奏でるハワイアンと日本のヒット曲を集めた8トラック・カートリッジが「港町シャンソン/ヤング・ハワイアンズ」というタイトルでPonyPacレーベルから販売されていたらしい。

ところで8トラック・カートリッジとは何ぞや、と若い人たちは思うだろう。それは、カセットの前身とも言うべきもので、カー・ステレオでの使用を目的にアメリカで1965年に製品化されたものだ。

オープンリールと同じ幅のテープに8トラック分が録音されたテープが、弁当箱のようなカートリッジ・ケースの中にエンドレスで巻かれている。オープンリールと違い、簡単な作業で音楽が楽しめるので、車以外にも一般家庭や放送局などでも使用されていた。

話を戻す。このハワイから来た若者たちの中にベッツィーという女性がいた。彼女は、そのカートリッジの録音に際し、私達「モダンフォーク・フェローズ」がリリースした「さよならは言わないで」を歌ったという。私達がリリースしたのが同年6/1なので、そのわずか一ヶ月後になる。ハワイから来たベッツィーが、何故その曲を選んだのかはわからない。あくまで推測だが、録音されたのがニッポン放送の第1スタジオだった。わたしたちも度々このスタジオではお世話になったので、録音の際に関係者が、もしかしたらこの曲を彼女に推薦してくれたのかもしれない。

彼女は、後に一緒に来日した女性クリスと組み、あの大ヒット、ベッツィー&クリスの「白い色は恋人の色」を発表した。そのレーコーディングでベースを担当したのが、後に私達のグループにも参加した吉田勝宣である。

「モダンフォーク・フェローズ」と「ベッツィー&クリス」の、なんとも不思議な縁だ。私はベッツィー&クリスに会ったこともない。今となっては、この8トラック・カートリッジを聞く術もないのが残念だ。

13 南こうせつも歌った

「今日も夢みる」

南こうせつ(南高節 以下「こうせつ」)と私達「ザ・モダン・フォーク・フェローズ」(以下「MFF」)は、その昔、九州は大分で出会っているらしい。 
1968
年3月、MFFはアマチュア学生バンドにして、生意気にも福岡・大分遠征ツアーを実施。そのとき大分で高校生のこうせつは我々のステージを見ていたらしい。

こうせつは当事、大分県立大分舞鶴高校の3年生。当時、彼は「ヤング・フォーク・スリー」なる高校生アマチュアバンドを組んでいた。

メンバーは彼のほか伊勢正三、釘宮誠司の三人。
1970年第一期「南高節とかぐや姫」を結成。当時のメンバーはこうせつ、森進一郎、大島三平。 翌年19719月には伊勢正三とシュリークスのメンバーだった山田嗣人こと、後の山田パンダを迎え、第二期「南こうせつとかぐや姫」を結成している。

彼がいた舞鶴高校は2010年に創立60周年ということで106日、その周年式典が「いいちこ総合文化センター・グランシアター」で開催された。 生徒や教職員、卒業生ら千人以上が出席したという。
そこでこうせつは、この「ヤング・フォーク・スリー」を再結成。なんと私達MFFの持ち歌「今日も夢みる」を歌い、会場からは大きな拍手がおくられたと言う。

後の話によれば、MFFが大分に遠征したとき、こうせつは我々のステージを見て、「この程度なら俺たちにも出来る」と確信したという。

時代は移り、私達MFFは大学卒業後一度解散。私はTBSラジオで「山本コウタローのパックイン・ミュージック」という深夜の生番組を担当していた。コウタローの仲間のこうせつは、ある晩ふらっとスタジオに遊びに来て、小生へひやかし半分で「今日も夢見る」を歌ったことがある。ちょっと、恥ずかしいような、それでいてすこし嬉しかった。今となっては懐かしい思い出である。

12「フォー・ダイムス」

1960年代後半、私の卒業した慶応大学にはジャズ、ハワイアン、カントリー、フォークソング、ロックをはじめ各ジャンルにまたがる多くのバンドがありました。
 大先輩のダークダックス、加山雄三とランチャーズ、ワイルド・ワンズの加瀬邦彦さん、兄弟ユニット「ビリー・バンバン」のお兄さん等、そして先日亡くなったYMOのドラマー高橋幸宏のお兄さんもフィンガーズというロックバンドで活躍していました。 

その頃の慶応のフォークソングのグループとしては、慶応世界民族音楽研究会(K.W.F.M.A)、先輩の「フォー・ダイムズ」、「ランブリング・バーミンズ」、同年代では「ニュー・フロンティアズ」と私達「モダンフォーク・フェローズ」といったところでしょうか。

 先輩バンドでもある「フォー・ダイムズ」は「エルモ」というスキー同好会に所属する学生たちで1965年に結成されました。 オリジナルメンバーは山本峯生さん、岡村一さん、内田信夫さん、そして紅一点の村上和子さん。
 メンバーの岡村一さんは、「小さなスナック」のヒットでおなじみのグループ「パープル・シャドウズ」のキーボード岡村右の実兄です。
 彼らはPP&Mスタイルのグループ、1967/1/5に東芝EMIレコードからオリジナル曲「夕陽が沈む」をリリースしました。

大学生バンドの宿命というか、男性3人が卒業してしまうと、1年後輩の村上さんは1人取り残され、自然解散。
 その後、彼女は同じ大学の後輩バンド「ザ・フォー・ミンストレルズ」という4人グループと一緒に「万里村れいとザ・タイム・セラーズ」というバンド名で、あの「今日も夢みる」をリリース(1968/3/10発売 東芝RMI)しました。
  ちなみに、この「万里村」という名前は、ピーター、ポール & マリーの「マリー」と村上の「村」の合成とのこと。
 その村上和子さん、と言うか万里村れいさんは、 1997年の春、30年ぶりに新生「フォー・ダイムズ」を結成。山本峰生さんに替わり、岡部仁さんが加わりました。
 1999年には東京・六本木のライブハウス「スイート・ベイジル」で華々しく復帰コンサートを開催、自主CDを出版するなど積極的な活動をしていましたが、200512月には活動を休止。
 その後、万理村れいさんは新たに「万理村れい&115」というグループを名古屋で結成。メンバーは万理村れいさんのほか第二期フォーダイムスの岡部仁、そして新たに名古屋在住の小林龍彦さん。200853日には名古屋の「パラダイス・カフェ」で、同月25日には東京・六本木の「KNOB」でライブを実施。 両会場とも、私とベースのカッチンこと吉田勝宣さんがお手伝いさせていただきました。その後、万理村さんはソロのヴォーカリストとして活躍中。幅広いレパートリーでお客様を魅了しています。

11 幻のフォーク・ソング専門誌

数十年も前のことですが、北海道にお住まいの氏家さんという方から、「FOLK VILLAGE VOICE」(1966年 11月号 Vol.2)という雑誌のコピーが送られてきました。 私は、この雑誌については、その存在さえも知りませんでした。 26ページのB-5版、一冊50円也。

特集記事は同年923日、新宿に開店した「FOLK VILLAGE」という店についてです。店内の小さなステージにPP&Mスタイルのバンドの写真。どうやらオープニングコンサートの模様と思われるます。
 
開店した頃、私もこのお店に何度か行ったことがあります。 
この雑誌の記事によればコーヒー1杯100円とのこと、毎週土曜日には夜10時からオールナイトのコンサートもやっていたようです。写真にはVネックのセーターにポロシャツ姿、いかにもアイビールックの若者達が大勢写っています。
 当時は、まだライブハウスという言葉もなかった時代に、このようなお店はフォークファンにとって、とてもありがたい存在でした。
 
  話を戻して、この雑誌「FOLK VILLAGE VOICE」、別のページには「BEST OF JAMBOREE」という記事があり、学生が運営していたコンサート「ジュニア・ジャンボリー」と「ファミリー・ジャンボリー」の人気投票の結果が紹介されています。
「ジュニア・ジャンボリー」では1位「ランブリング・バーミンズ」、2位 「ハミング・バーズ」、3位「ニュー・フロンティアーズ」。 「ファミリー・ジャンボリー」では、なんと1位に、私達「モダン・フォーク・フェローズ」、2位「フォー・セインツ」、3位「ブリケット・フォー」となっていました。 ちなみに私達「M.F.F」について、この雑誌では以下のように紹介されていました。
『第1位のモダン・フォーク・フェローズは、文字通りファミリー・ジャンボリーの看板スターだけに、文句のないところだろう。編成もP.P.Mスタイルの5人組から、最近は一人抜けて4人となった。全員慶応の学生で「セトル・ダウン」などはすでに定評があるーーー』
私は、当時このような人気投票があったことも知らず、約60年も経った今になっても、このようなお褒めの言葉をいただいたことは、嬉しいかぎりです。

  
いったいこの雑誌はいつ頃まで続いたのか、他の号ではどんな記事が載ったのかなど、今となっては知るすべもありません。(続く)
 

10「ジ・アイビー・トワインズ」の思い出

1960年代前半、日本のテレビから「ペリー・コモ・ショー」、「アンディ・ウイリアムス・ショー」、「マントバーニー・ショー」、「エド・サリバン・ショー」など、数多くのアメリカの音楽番組が放送されていました。
 私は、これらの番組を喰い入るように見たものです。
 それらの番組の中で、「ペリー・コモ・ショー」にレギュラー出演していた「レノン・シスターズ」という三人の女性姉妹グループのなんともスイートなハーモニーが大好きでした。
 先日、昔のカレッジポップスやフォークソングのレコードを整理しながら、懐かしの「ジ・アイビー・トワインズ」の曲を聴いた途端、なんとも素敵なハーモニーが、当時のレノン・シスターズを彷彿とさせました。

「ジ・アイビー・トワインズ」は「レノン・シスターズ」に迫るグループだったのだと再確認した次第です。
 

 「ジ・アイビー・トワインズ」、メンバーは(写真左から)湯沢裕子さん、国東美智子さん、高世のり子さんの三人。
当時、「ジュニア・ジャンボリー」や、湯沢さんのお姉さんが主催する「ファミリー・ジャンボリー」で、アイドル的存在でした。 
 このグループがリリースしたのは写真のEP1枚のみ。A面は都築新一作詞、青山靖介作曲「いつか見た青い空」、B面はメンバーの高世のり子さんの作詞・作曲「思い出の世界」。
 今風に言えば「癒し系」というのでしょうか、単純な回転コード、単純なハーモニーではありますが、とっても心和む響きがあり、なんだか優しくなれるハモといった雰囲気が漂っていました。
 例によってニッポン放送の「フォーク・ビレッジ」に何度も出演したり、レナウンのCMソング<レナウン娘>も歌ってました。

このグループのほか、「小さな日記」をヒットさせた「フォー・セインツ」、そして私達「モダン・フォーク・フェローズ」の三グループは、学生同士ということもあり、楽屋やスタジオ以外でも何かというと気兼ねなく、頻繁に集っていたような思い出があります。
 当時、営団地下鉄の赤坂見附駅からすぐそばに「八千代」というレストランがあり、ファミリー・ジャンボリーのレギュラーメンバーの溜まり場になっていました。 そのお店の「鳥の包み焼き」(ピラフが鶏肉に包まれている料理)を食べながら、フォーク談義に花を咲かせたのも今となっては、懐かしい思い出です。

学生バンドの進む道 後編

 

「今日も夢見る」

ジャケット写真、右端が筆者、左から三人目が故影山民夫
ジャケット写真、右端が筆者、左から三人目が故影山民夫

 

フォークソングファンなら、知っている人もいると思いますが、「今日も夢見る」という曲は、もう50年以上も前に、私の所属する「モダン・フォーク・フェローズ」がニッポン放送のスタジオで録音し、連日「ヤング・ヤング・ヤング」という番組で放送された曲です。この曲はこの番組で広く一般に募集し、多数の応募曲から選ばれた優勝曲です。当然のように私達に、この歌のレコーディングのお誘いがありました。 しかし、何をか言わん、当の私一人が反対してしまいました。言い訳がましいのですが、当時はレコードデビューということは、プロという考え方が一般的でした。私達の実力では、とてもプロとして通用しない、と私は思っていました。
 アマチュア・グループとして、好き勝手ができる方が気分的に楽だという甘えもありました。  
 結局、私のためにメンバー全員にレコードデビューという好機を失するという迷惑をかけたような結果となりました。
 そんなわがままなアマチュア学生バンドを前に、ニッポン放送と東芝EMIは頭を抱えてしまったのでしょう。 
 この曲のために「万里村れいとザ・タイムセラーズ」というバンドを作り、無事レコード化され、1968年3月、世に出たというわけです。
 万里村れいさんは、「ザ・フォーダイムス」の紅一点、村上和子さんのこと。 「ザ・タイムセラーズ」の実体は慶応大学のグループ「ザ・フォー・ミンストレルズ」という4人のグループです。 

 その後、私達「モダン・フォーク・フェローズ」は、1年以上遅れること19696月に東芝EMIから「さよならは言わないで」のB面として「今日も夢みる」をリリースしました。
 私としては、50年以上も前のこの話題、今でもなんとなく避けたい話題の一つです。(続く)

     以下YouTubeで私達の「今日も夢見る」を聞くことができます。https://www.youtube.com/watch?v=NmhnJZ8gZ5g

その⑧

学生バンドの進む道 前編

学生時代に発売したニューフロンティアーズのLP
学生時代に発売したニューフロンティアーズのLP

1960年代後半、日本における初期のフォークソングブームはアメリカのグループのコピーが大半をしめていたことは、既にご紹介しました。 日本でシンガー・ソングライターが注目され始めたのは、吉田拓郎やユーミンこと松任谷由実など、ニューミュージック系のアーティスト達が活躍し始めた1970年以降のこと。
それまでの音楽界は作曲家、作詞家、演奏家、歌手など、各専門分野が分業していました。
 日本で始めてフォークシンガーという触れ込みのもとに登場したマイク真木さんのデビューヒット「バラが咲いた」は浜口庫之助さんの作詞・作曲ですし、その後もザ・フォーク・クルセダーズの「悲しくてやりきれない」はサトウ・ハチロウ作詞、「赤い鳥」や「トワ・エ・モワ」のヒット曲に至っては、ほとんど著名な作詞・作曲家によるものです。
 アマチュアのフォークソングがブームとなった1960年代後半は、プロでなくても堂々と音楽を発表し、楽しむことが出来るというエポックメイキングな時代の過渡期だったとも言えるでしょう。

1968年、すぎやまこういち作曲、橋本淳作詞「亜麻色の髪の乙女」という歌をヴィレッジ・シンガースが歌い大ヒットしたことを覚えていらっしゃる方も多いと思います。 実はあの歌、最初にレコーディングの話があったのは、アマチュアの学生フォークグループ、「ザ・ニュー・フロンティアーズ」でした。 
  また、伊藤きよ子さんの歌った「花と小父さん」のヒットを覚えていらっしゃる方も多いと思いますが、そのB面の「星からの便り」という歌(両面とも浜口庫之助作詞・作曲)も、やはり最初は「ニュー・フロンティアーズ」にレコーディングの話があったとか。 理由は定かではありませんが、残念ながらニュー・フロンティアーズのレコード化は実現しませんでした。その後、彼らはアメリカに渡りEASTというバンド名でLPレコードをリリース、本格的に活動を始めました。

良い悪いは別として、もし日本でのレコーデイングがあったら、彼らの進む道も違っていたでしょう。(続く)

その⑦

PPMフォロワーズ

 

 前回、MFQについて書きましたが、日本におけるフォークソングの夜明けを担ったもう一つのグループが「PPMフォロワーズ」です。
 MFQを設立した吉田さんは、その後体を壊し活動をしていませんでしたが回復の後、小室等さんの誘いで、このグループに参加。それまではベースは弾いたこともなかったということですが、リーダーの小室等さんの厳しい特訓!!!と本人の涙ぐましい努力により、ベースをマスターしたということです。
 当時のPPMフォロワーズはギターやヴォーカルパートから、ステージ上での動き方までまさに本家ピーター、ポール&マリー(以下PP&M)の完璧なコピーをしていました。 
 PP&Mのベーシスト、ディック・ケネス(Dick Kniss)の奏でるベースを私は大好きです。PP&Mの大ヒット「悲しみのジェットプレーン」のイントロ部分や「エヴリ・フラワー」の間奏(アルバム「SUCH IS LOVE」)に流れる、ちょっとジャジーなべースの雰囲気が何とも言えず良いのです。 ほかにも彼はジョン・デンバーやメアリー・マクレガーのバックでも活躍しています。
 
 当時PPMフォロワーズが録音し、パート譜つきで発売された赤いソノシートは現在でも多数の大学のフォークソングサークルで面々と伝承されているようです。そういえば先日、某コンサートホールの楽屋でアルフィーの坂崎幸之助さんも、このソノシートでギターの練習をしたと言っていました。
 このグループのリーダーの小室等さんは、バンド解散後「上條恒彦と六文銭」というバンドを結成、「出発(たびだち)の歌」が大ヒット、現在は娘さんとのユニットなどでも活躍しています。   MFQPPMフォロワーズに加え、フロッギーズ、森山良子さんあたりが日本のフォークソングの先駆けとなった人たちでしょう。
 当時としてはとても新鮮なアメリカン・フォーク、その素敵なハーモニーやメロディはまさに青春の1ページとして今も多くの人たちの心に刻まれています。

(続く)

その 

 モダンフォーク・カルテット(MFQ) 結成50周年

 私たちのバンド「ザ・モダンフォーク・フェローズ」に、かつて直木賞作家であった故景山民夫君がベースと司会担当だったことは前記しましたが、彼亡き後、なかば強引にわれわれのバンドに引っ張りこんだベーシストがカッチンこと、MFQの吉田勝宣さんです。
1964
年、吉田さんは明治学院大学で学友二人(重見康一さん、麻田浩さん)とバンドを結成、さらに日大芸術学部に通っていた真木荘一郎(マイク真木)さんが加わり「モダン・フォーク・カルテット」(MFQ)が生まれたとのこと。

 結成後まもなく、吉田さんは、(彼曰く)勉強のしすぎで病気になり、バンド活動が出来なくなったため、ギター担当は新メンバーの渡辺薫さんにバトンタッチ。
 私が「ファミリー・ジャンボリー」や「ステューデント・フェスティバル」など学生の自主運営コンサートで度々MFQのステージを見ていたのはこの頃でした。 
 当時、渡辺さんのメロディの谷間を縫う様な素敵なギターワーク、ベースを弾きながら、ちょっと斜にかまえて歌う麻田さん、ウイットに富んだ重見さんのおしゃべり、そしてアイビールックに身をかためた真木さん、客席から見るMFQはまさに憧れの存在でした。
 真木さんをはじめ、グループとしてもメンクラ(雑誌「メンズクラブ」)のモデルとして何回か登場したように記憶しています。
その後、吉田さんは体調が回復、小室等さん率いるPPM フォロワーズのベーシストとして参加、1969年に発売されたベッツィー&クリスの「白い色は恋人の色」のベースも担当しています。

その頃に前後して、吉田さんはMFQにベーシストとして再び参加、麻田さんはベースをギターに持ち替えました。そして、文頭にあるように吉田さんは私達「モダンフォーク・フェローズ」のメンバーにもなりました。

 MFQ結成50年、渡辺さんは著名空間デザイナーになり、重見さんは帰らぬ人となりましたが、真木、麻田、吉田のオリジナルメンバーに加え、パーカションの女性メンバーが新たに加わって現在も精力的に活躍中です。(続く)

その⑤

東芝EMIレコードの「カレッジポップス」レーベル

レコード化されで大ヒットしたフォー・セインツの「小さな日記」
レコード化されで大ヒットしたフォー・セインツの「小さな日記」

 

 前回はラジオ番組、ニッポン放送の「フォークビレッジ」について書きましたが、この番組と連携し、多くのアマチュア作品を世に出したのが東芝EMIレコードの辣腕プロデューサー高嶋弘之さんでした。高嶋さんは日本におけるビートルズの初代ディレクターでもあり、あの「抱きしめたい」、「涙の乗車券」、「ノルウエーの森」などの邦題は彼が名付け親です。

氏は、目下活躍中のバイオリンニストの高嶋ちさ子さんのお父さんです。

氏のお兄様は俳優の高嶋忠夫さんと言うか、氏は高嶋政伸と高島政宏の叔父さんと言った方が通じやすいでしょうか。

私達MFFのEPレコード。ギターを抱えているのが筆者
私達MFFのEPレコード。ギターを抱えているのが筆者

この東芝EMIレコードの高嶋さんとニッポン放送のプロデューサー有海さんが、熱心に若者の歌に耳を傾け、学生の主催する数々のコンサートに足を運びラジオで紹介する一方、番組のリスナーから広く歌を募集、その曲をアマチュアグループに歌わせ、番組独自のオリジナルソング「今月の歌」を発表していました。

 それらの歌の評判がよければ、東芝EMIレコードから「カレッジポップス」シリーズとして発売されました。

ラジオの番組をきっかけに商品開発されるという、後にも先にもあれほどのマーチャンダイジング力を持つ番組は未だ見当たりません。

私達「ザ・モダンフォーク・フェローズ」も「今日も夢見る」、「朝焼けの中に」、「一人ぼっちの雨の歌」、「さよならは言わないで」「別れ」の5曲をリリースしました。このようにして生まれたカレッジポップスブームも、時代の流れと伴に、徐々にメッセージフォークや関西系のフォークソングに替わっていきました。(続く)

その④

■フォークソング・ブームはラジオから

 

 

■フォークソング・ブームはラジオから

 

1960年代後半、ニッポン放送の「バイタリス・フォーク・ビレッジ」という番組では、毎晩アマチュアのフォークシンガーやグループの歌や演奏を紹介することで一大フォークソングブームを作りました。

 森山良子さん、マイク真木、ブロードサイド・フォー、ザ・リガニーズ、フォー・セインツ、フォーク・クルセイダーズ、吉田拓郎、ビリー・バンバンなど、この番組出演がきっかけで、後にプロになったグループやシンガーは大勢います。私の所属していた「モダンフォーク・フェローズ」も度々出演させていただきました。

 この番組に情熱を傾けていたのがニッポン放送の辣腕プロデューサー有海喜巳夫さんとディレクターの島田さん。 毎週土曜日の午後、有楽町にあるニッポン放送の第一スタジオで根気よくアマチュアの歌や演奏に対しアドバイスし、録音し、育ててくれました。 

 ラジオから自分たちの音楽が放送される、という魅力は当時のアマチュア・ミュージシャンの誇りとも言えました。 

エイズ基金コンサートなどを仕掛けた大物プロデューサー金子洋明さんは、この番組の制作スタッフとしてスタジオでよくお目にかかりました。 当時、彼は「スチューデント・フェスティバル」というアマチュア・フォークミュージック団体の主催者でもありました。

 

和製フォーク・ソングと言えば、ベトナム戦争が泥沼に入った当時、新宿西口に集まっては反戦歌を唄っていた人達も、時代の象徴でしたが、この番組「バイタリス・フォーク・ビレッジ」はキングストン・トリオ、P.P.M、ブラザース・フォーなどのアメリカン・フォークソングのコピーバンドをはじめ、どちらかというと洋楽風な曲を得意とするバンドを中心に紹介していました。そんな都会的なスマートさもあり、この番組から前記したような多くのプロミュージシャンが羽ばたいて行きました。

その③

「慶応大学のフォークソング グループ」

左上:フォー・ダイムス 下:ニュー・フロンティアズ 右:KWFMA
左上:フォー・ダイムス 下:ニュー・フロンティアズ 右:KWFMA

 

 慶應大学で私達は「モダン・フォーク・フェローズ」というグループを組んでいましたが、他にもこの大学には前出の「ニュー・フロンティアーズ」、先輩には「フォー・ダイムス」や「ランブリング・バーミンズ」というグループがいました。

 「フォー・ダイムス」はニ年先輩の岡村さん、内田さん、山本さん、そして一年先輩の紅一点村上さんという4人グループ。 私達と同じく「ピーター、ポール&マリー」スタイルのグループでした。

「ランブリング・バーミンズ」は一年先輩の北条さんと、当時学習院大学の黒川さんのデュエットグループ。彼らは「ブラザース・フォー」のナンバーをやっていたような気がします。北条さんは、その後㈱電通に就職、スポーツ・文化事業部で、本家ブラザース・フォーの招聘関連の仕事をやっていた様です。

また、「フォー・ダイムス」はメンバーが代わり、詳しいことは分からないのですが、私達と同期の岡部仁君が加わりました。

 私達を含め、これらのグループは自主的な活動であり、大学の公認団体ではありませんでしたが、その後「K.W.F.M.A」(Keio World Folk Music Association)という大学公認のクラブができました。 

 このクラブを立ち上げる中心となっていたのは、当時「ニュー・フロンティアーズ」のベースを担当していた福山敦君や、現在私のライブにもゲストとして登場する三宅俊介君ほか、数名のメンバーです。この「K.W.F.M.A」は「ニュー・クリスティ・ミンストレルズ」風のシングアウト系グループ。 彼らの十八番「ソーラン節」のアレンジは秀一でした。 このクラブ創設以来、中心となって頑張っていた福山君は「ニュー・フロンティアーズ」から後にプロのベーシストとして加藤登紀子さんのステージなどで活躍していました。そして、このグループでドラムスを担当していた松本君が、前後して私達「モダンフォーク・フェローズ」のメンバーとして加わりました。

ドラムスが加わったことで、それまでの比較的おとなしいフォークソングから、ママズ&パパスなどフォークロックのコピーもするようになりました。

その②

「フォークソングとの出会い」 

 

私が慶應の高校生の頃、我が家にスタンフォード大学の交換留学生フレッド君がホームステイをしていました。彼は東洋哲学を専攻し、本居宣長の研究をしていたようです。学者の卵のような彼、おとなしそうな真面目な青年でした。そんな彼が勉強の合間にガットギターをつま弾きながら、英語で素敵な歌を歌っていました。私がアメリカンフォークソングに出会ったきっかけです。

 当時の私はエレキギターの世界にドップリ。ベンチャーズ、デュアン・エディ、アストロノーツなどの曲を、レコードを何回も聞いてはコピーしていました。

そんな自分にとって、フレッド君の奏でるギターと歌のアコースティックな響きに、なんとも言えない衝撃を受けたのを覚えています。

 

 高校3年生の時、友人H君がガットギターを学校に持ってきました。 放課後の教室でH君が弾いてくれたのが“Nobody Knows The Trouble Ive Seen”という、アメリカでは誰でも知っているスピリチュアルソングでした。 H君はクラシックのように4フィンガーでガットギターを巧みに弾いた後、得意そうに僕に基本テクニックを教えてくれました。これが基礎となり、後にピーター、ポール&マリーのギターをコピーできるようになりました。私のフォークソング生活はさておいて、その頃、慶応高校の志木校に、ものすごいグループがいました。 その名は「ニュー・フロンティアーズ」。 キングストン・トリオに傾倒し、高校生にしてほぼ完璧なコピー、しかも自費でLPを出版していました。グループのメンバーであったムーチャンこと新庄駿は、後に、私のいた「モダン・フォーク・フェローズ」に入ってきました。ニューフロンティアーズはムーチャンが抜けたあとに吉川忠英が参加し、瀬戸竜介、森田玄とプロを目指し本格的に活動を開始。後にEASTと名前を変えてアメリカでプロデビューしました。彼等の記事がアメリカの音楽雑誌BILLBORDでも紹介されていたのを覚えています。次回に続く。

1968年 私の所属するグループ「ザ・モダンフォーク・フェローズ」 右端が筆者 左端が影山民夫
1968年 私の所属するグループ「ザ・モダンフォーク・フェローズ」 右端が筆者 左端が影山民夫

その①

日本フォークソングの産声

 

流行に敏感な男の子達は「平凡パンチ」や「メンズクラブ」を読みふけり、整髪料はバイタリス、ボタンダウンのシャツにバミューダショーツ。女の子は横浜元町のフクゾーのトレーナー着て銀座みゆき通りや湘南を闊歩していた1960年代初頭。アイビーファッションとともにアメリカからモダン・フォークソングという素敵な音楽が日本に上陸した。その後、’60年代中期からほんの数年間、一瞬の音楽シーンを飾った日本のフォークミュージック誕生である。

当時、ほとんどの学生バンドは「キングストン・トリオ」「ブラザース・フォー」「ピーター・ポール・アンドマリー」(以後P,P&M)などアメリカのフォークソングのコピーを楽しんでいました。

アマチュアバンドが自主コンサートを定期的に開催。「スチューデント・フェスティバル」「ジュニア・ジャンボリー」「ファミリー・ジャンボリー」ほか学生サークルが積極的にコンサート活動を展開していた。

そんな仲間達から、後にプロに転向した人も沢山いた。

マイク真木さんは「モダン・フォーク・クワルテット」という学生バンドのリードヴォーカルだった。「バラが咲いた」でデビューしたのが1966年だ。

森山良子さんは成城大学の可憐な女子大生、ジョン・バエズのコピーが得意で、当時としてはめずらしい女性のソロの弾き語りで活躍していた。

「海は恋してる」の「ザ・リガニーズ」、「小さな日記」の「フォー・セインツ」、「若者たち」の「ブロードサイド・フォー」、「白いブランコ」の「ビリー・バンバン」、みんな当時はアマチュアバンドだった。あの「オフコース」もアマチュアバンドでP,P&Mのレパートリーを歌っていた。

その後、レコード会社、放送局、プロダクション、プロモーターなど、日本の音楽界に大きな影響を与える人たちが大勢いた。

ちょっと異色では、直木賞作家で事故で他界した景山民夫君は当時、私達のバンド「ザ・モダン・フォーク・フェローズ」でウッドベースと司会を担当していた。

1960年代の終わりに反戦フォークやプロテストソングが台頭するまでのほんの数年間、これらアメリカン・モダン・フォークの美しいメロディとハーモニーを多くの若者が楽しんでいた。(続く)