音楽愉楽
「亜麻色の髪の乙女」
いしだあゆみ「ブルーライト・ヨコハマ」、ジャッキー吉川とブルー・コメッツ「ブルーシャトー」、ビレッジ・シンガーズ「亜麻色の髪の乙女」など数々の大ヒットを作詞した橋本淳氏が逝った。
「亜麻色の髪の乙女」は、歌いはじめてしばらくしたサビの部分
『バラ色のほほえみ』のあとに伴奏が<シャンシャン>と二拍打ったあとに『青い空』となる。この<シャンシャン>は聞いている人もあわせて手を叩く。
この<シャンシャン>が、大ヒットにつながったと思う。
しかし、もともとの原曲には、この<シャンシャン>はなかった。それどころか曲のタイトルも「風ふく丘」だった。
詳細は不明だが、この原曲「風ふく丘」は青山ミチが録音したものの発売直前になって中止されたという。
録音の話はフォークソンググループの「ニュー・フロンティアーズ」にもあった。これも理由は定かでないが実現していない。
そして、何年か後にビレッジ・シンガーズが<シャンシャン>で大ヒットとなった。
この曲は、作曲、編曲すぎやまこういちとなっているので、あの<シャンシャン>は彼がアレンジしたのだろうか。しかしタイトルを「風ふく丘」から「亜麻色の髪の乙女」に変更したのは誰なのだろう。橋本淳氏なのかレコード会社なのかわからない。青山ミチの歌った原曲が発売直前に中止された理由も分からない。彼女の録音は、その後何年も経ってLPの一曲としてリリースされている。
私も時々、この歌を歌うが、<シャンシャン>抜きの原曲のほうが好きなので、歌う前に「フォークソング風に歌うのでシャンシャンは、しないでください」と、お願いしてから歌い出す。それでも、人の話を聞いていない酔っぱらいの客は、シャンシャンとやられる。これが嫌で最近はレパートリーから離れてしまった。
いずれにしろドーナツ版とよばれる懐かしのEPレコード時代の話だ。
今回の橋本淳のほかにも、なかにし礼、サトウハチロー、永六輔、阿久悠、優れた作詞家がどんどんいなくなる。
最近のヒット曲などを聞いていると、「詩」が聞こえてこないのは、淋しいかぎりだ。
Noppeライブ500回記念
「The Last Waltz」
昔、私の大好きなアメリカのロックバンド、その名も “The Band”が解散記念コンサートに付したタイトルが”The Last Waltz”だ。このコンサートの模様は映画にもなった。
これにあやかるが如く、私は6/27(土)に最後のライブをやることに決めた。最後といっても、自分で企画し、メンバーを集め、会場やリハーサルなどの手配をし、チラシも作り、自ら動員し、運営するという自主コンサートのことだ。
未練たらしい言い訳だが、その後も、ソロで定期的にやっているライブや、社会福祉関連団体などのお呼びがかかればノコノコ出ていく予定だ。しかしこれも、いつまで出来ることやら悩ましい限りだ。
つい先日、20年以上も前から数えて、やっと500回目のライブをこなしたことは、このページで書いた。これがきっかけとなった。
はずかしい話だが、耳が徐々に悪くなり、数年前から日常的に補聴器のお世話になっている。それなりに高価な補聴器だが、音楽を楽しむようなレベルではない。次第にコンサートやライブに行く楽しみも減ってきた。ましてや自分のライブをやりながら、お客様には、どの様に聞こえているのか、自信が持てないようになってきた。
まあ、年齢もキリが良い、まもなく80歳。これで一区切り、という気分でいる。
この “The Last Waltz”ライブ、ここまで引きずってきたのには理由(わけ)がある。アメリカに住む娘とのジョイントを最後としたかった。毎夏一時帰国する娘はパーカッションのプロとして当地で活躍している。多分私の音楽バカを受け継いだどころか、私を踏み越えて、生業(なりわい)の域に達してくれた。親バカながら嬉しい限りである。
さらに、普段気の合った仲間、ナカちゃん(P, Vo.)、カッチン(B.)もジョイントする。
会場は我が家の近く「鎌倉山集会所」だ。あえてライブハウスや大掛かりな会場は避けた。
長くなったが、この“The Last Waltz”、このホームページでつながっている音楽バカの仲間にも知っていただきたく、ここに大げさにご案内することにした次第である。
さて、どうなるものか、とても心配だが、音楽バカの成れの果てをご覧にいれるべく、もっか諸々企画中である。
悩ましき野外コンサート
5/17(日)第二回鎌倉山ミュージックデイは好評のうちに無事終了した。鎌倉山交差点、俗にロータリーすぐ近くの「鎌倉山倶楽部」、おそば屋「檑亭」、レストラン「ル・ミリュー」、そして鎌倉山集会所と隣接する「たけのこ広場」でクラシックからロックまでいろいろなジャンルの音楽が実演された。
私は、「鎌倉山倶楽部」とル・ミリューの二会場に出演。鎌倉山倶楽部には期待を上回るお客様が来ていただき、嬉しかった。
そして午後は「鎌倉山バンド」の一員として「ル・ミリュー」の屋上テラスでの演奏だ。ここでは最初のジャズ・バンドにはじまり次々といろいろなバンドが登場。私たちは最後の出演となった。
外は真夏のようなギンギラの太陽が照りつけ、出演者は演奏が終わる頃には頬が赤く日焼けしていた。私たちが演奏する頃には風も吹き始める。譜面台に乗せた譜面が風に飛ばされそうになる。昨年の経験から私はタブレットでも譜面を用意していたが、私たちのまえのに出たバンドの話しでは熱暑でタブレットが異常をきたし、役に立たなかったとのこと。
しかたなく風に吹かれて飛びそうになる紙の譜面を洗濯鋏で挟み付けて、なんとか演奏は終わることが出来た。
夏には野外のコンサートも多い。まず心配なのは楽器だ。熱暑で楽器の板や弦がダメにならないか心配だ。私は演奏が始まる直前までギターに直接太陽があたらないようにしていた。クラシックのバイオリンなどは、この熱暑で演奏するのは無理だろう。そして前記のように風や熱に耐えられる譜面の対策も必要になる。
以前、とある海の家で演奏したことがあるが、海風で譜面台ごとすっとんでしまった事があった。しっかりした譜面台と、譜面が風に煽られないようゴムやハサミでとめることになる。
どの方法がいいのかいろいろ考えるものの、ベストな方法はまだ見つかっていない。
ただ言えることは、すべて暗記すればいいのだが、爺にはそれが思うようにいかないのが現実だ。
悩ましきは夏の野外コンサートなのだ。
歌詞、難解なり
普段はなにげなく使っている言葉だが、いざ人前で喋る時、歌う時に妙に気になることがある。たとえば「行く」は「いく」なのか「ゆく」なのか。どちらも正しい読み方だがーー。
ずいぶん前だが永六輔作詞、中村八大作曲の「遠くへ行きたい」はジェリー藤尾が歌って大ヒットした。今改めてYOU-TUBEで聞いてみると「遠くへ行きたい」は「とおくへいきたい」と歌っている。
歌詞に出てくる漢字もまた難しい。SMAPの大ヒット「夜空ノムコウ」、最初のコーラスの「明日が待っている」は「あした」、最後のコーラスは同じ歌詞だが「あす」と歌われている。この曲のタイトル「夜空ノムコウ」は何故カタカナなのか。この曲の作詞者の名前はスガシカオ、やっぱりカタカナだ。彼が言うにはカタカナは無機質な感じがして良い、とのこと。
漢字の読み方やフリガナをしていないと難しい曲もある。森山直太朗の「さくら」もそんな曲だ。
歌詞の中には、挫ける(くじける)、刹那(せつな)、運命(さだめ)、瞬間(とき)など読み方の難しい漢字が並ぶ。
誰でも知っている「箱根八里」も難解な曲だ。その極めつけが歌詞の中に出てくる「羊腸の小径」(ようちょうのしょうけい)だろう。これは<羊の腸のように曲がりくねった小道>、という意味だ。他にも、この歌には「剛毅の武士」(ごうきのもののふ)、「一夫関」(いっぷかん)など難解な歌詞が多い。だが、広く親しまれている曲だ。
話は少しずれるが、最近のテレビを見ていると曲名なのかグループ名なのかわからない時が多い。すべて英語なのに歌詞は日本語だったり、見たこともない文字や記号を使うグループ名もある。まあ、若い人たちにはカッコ良いのだろうが、爺には難解だ。
好意的に考えれば、日本語はひらがな、カタカナ、漢字、そしてローマ字と表現の多様性があるともとれるが、アルファベット26文字しかない欧米のヒット曲にはその様な例はない。ただ一つ思い当たるのはスエーデンのグループABBAのロゴは、二番目の「B」が反転しているぐらいなものだろう。
どうでも良いような、重箱のすみをつつくような話だが、常々日本語の曲を歌うのは難しいなと思うのです。
はじめてのラフマニノフ
見たい映画は、映画館まで足を運んで見るべき、とは思うものの、近場の鎌倉市には映画館はない。バス、電車を乗り継いで辻堂のモールまで行けばシネコンもあるが、時間もお金もかかる。ということで、手近なテレビで映画を見ることが多くなっている。平日の午後1時からNHK-BSで毎日懐かしい映画が見られる。他にもwowwow、Net Flix、Amazonなどで、好きな時間に好きな映画を見ることも出来る。我が家のテラバイト級のハードディスクには、タイトルや俳優の名前だけがヒントで撮り溜めしたVTRが山積している。
雨の日は「オウチ映画」が良い。
ということで、前書きが長くなったが、そんな溜め撮りから、「シャイン」というオーストラリアの映画を見た。
実在のピアニストであるデイヴィッド・ヘルフゴットの半生を描いた作品だ。
幼少の頃から天才ピアニストと言われ、とても難しいラフマニノフの「ピアノ協奏曲第3番」を巡り父親と子どもの葛藤が描かれている。
子供には、留学をはじめ、いろいろなチャンスがあるものの、家族という理念で家を出ることを許さない父親に対し、勘当も覚悟で好機をつかもうとする子供の生き様が見事に表現されている。詳しい内容はここでは省くが、子供離れしない父親と向上心の強い子どもの対立を、とても熱く見た。
洋楽一辺倒の私、ラフマニノフというのは名前を知っている程度だが、この曲を演奏する指の動き、まさに極芸にも見えるピアノを弾く指にびっくりしたものだ。このような曲を、作曲する方もする方だが、この曲を弾きこなすのも至難の技だろう。そう、「弾きこなす」ということは、正確に弾けばいいということではない、そこにどの様な味付けをし、感動を呼び起こすかが問われるのだ。
映画の世界なので詳しいことは分からないが、一度ぐらいは実演を見てみたい、聞いてみたいと思ったものだ。
私のような安易なフォークソング弾き語りとは、全く別世界だが、それでも音楽に対する姿勢を問われるような気がした。もう、この歳になっては無理かもしれないが、新たなレパートリーにも挑戦してみようと思う。
訳されない歌詞
5月4日は、みどりの日。以前は4/29だった。もともとは昭和天皇の誕生日で、天皇が植物の研究に熱心だったところから、後に「みどりの日」となった。そこでコジツケがましいが、(まったくのコジツケです)「みどり」と言えば誰でも知っている曲「思い出のグリーン・グラス」(Green Green Grass Of Home)を思い出す。
日本では森山良子さんでおなじみの曲は山上路夫さんの訳詞だ。歌詞は、「都会から田舎に帰り、昔のままの我が家、恋人を懐かしい」、という内容になっている。
ヒットしたトム・ジョーンズの原曲は全く違う暗い内容だ。それは死刑囚の話だ。
「死刑になる前の晩に、故郷に帰る夢を見る。目が覚めれば、牢屋には看守と牧師が待っていた。私は、これから死刑になる。出来ることなら故郷の樫の木の根本に埋めてほしい。そしたらみんなに逢えるから」、という内容だ。
山上路夫さんも、さすがにこの原曲の内容は翻訳しづらかったのだろう。綺麗な、懐かしい故郷を歌い上げている。
このように、他にも日本語では決して歌えない曲もある。ドン・マクリーンが1971年に大ヒットさせた「アメリカン・パイ」は彼の希望で英語以外で歌うことを禁止しているという話を聞いたことがある。アメリカのロックスターバディ・ホリーの追悼の歌だが、8分42秒というメチャ長い曲だ。クイーンのボヘミアン・ラプソディ、イーグルスのホテル・カリフォルニアの2曲も長いが6分程度の曲だ。
長い曲と言えば森山良子の「さとうきび畑」は10分もある。洋の東西を問わず、なが〜い曲でも素敵な曲があるものだ。
話はそれたが、私のレパートリーでもある「思い出のグリーン・グラス」、ライブで歌う時には、やはり暗い部分は省いている。何故か?
トム・ジョーンズは3番を、歌うのではなく「語り」にしている。わたしは、英語の「語り」は、いまいち自信ないんですよ。(笑)

静かに500回
それは、58歳の冬のことだった。当時の会社は60歳定年制だった。
「定年になってから何かを始めるのではなく、そろそろ今後も長く続けられることを始めよう」と、思いついたのがライブの弾き語りだった。
ここ、鎌倉山にあった「ブォーノ」というカフェに頼み込んで第一回「Noppe Solo Live」をやらしてもらった。その日からナンバリングをし、先週4/19鵠沼海岸の老人ホーム「オーシャン・プロムナード」で500回に達した。22年5か月かかったことになる。平均すれば年間22回ぐらいの計算になるが、2020年から3年間はコロナの影響で年に4回前後しか歌っていない。老人ホームや社会福祉関連でのライブは全てキャンセルになり、定期的にライブをやっていたレストランも潰れた頃だ。
最も多かったのは昨年2025年に32回を記録した。
そしてこの度500回、とくに大げさなことは何もしなかった。
一曲目に「500マイル」を歌っただけだ。
今までの500回は全てファイリングされ(上の写真)曲順、主なお客様の名前、収入(ボランティアで無料のことも多い)など全て記録されている。
カウントの方法は、ワンステージで5曲以上を歌うのを1回としている。どこかのパーティで2〜3曲披露したり、他のグループのライブでゲストとして歌うことは多いが、それらはカウントしていない。
百回目(2009/10/18)は藤沢にあった「インタープレイ」というライブハウスで派手に100回記念ライブをやった。それ以後は200回(2013/5/15)、300回(2016/7/30)、400回(2020/1/29)と、特に大げさなことはしていない。何故か。これらの数字は大した数字ではないのだ。プロのミュージシャンは年間100ステージをこなす人も多い。私は自覚に乏しいが、出演料などをいただいているということはプロの端くれともとれる。
もっとも微々たる出演料で生計が成り立っているわけはないので、プロではなく、俗に言うセミプロ程度なのだろう。
最近は耳も悪くなり、自主的ライブは極端に減らしているが、それでもお呼びがあれば出かけていく。
この歳、この耳、それでもありがたいことに声をかけていただくことが多い。
5/17には第二回の鎌倉山ミュージックデイが開催される。私は二箇所でジョイントライブをする予定だ。よかったら冷やかしに来てください。(詳細はライブ予定ページで)
まず、クイズです。以下にあげる有名な曲の共通点は何でしょう。
「ちょうちょ」「蛍の光」「幸せなら手をたたこう」
答:外国の童謡や民謡に日本語の歌詞をつけた曲です。
ということで、今回のタイトルは
「舶来歌曲」としましょう。
ながいこと老人ホームやグループホームなどで入居者の皆さんと歌う仕事をしていると、歌う曲についてお話することが多い。事前に、ネットや専門書などで話すネタを、いろいろ考えるのですが、調べればとてもおもしろいことや意外なことがわかったりします。
まず、冒頭クイズの三曲「ちょうちょ」はドイツの古い童謡、「蛍の光」の原曲はスコットランド民謡、「幸せなら手をたたこう」はスペイン民謡です。
老人ホームなどで歌いだした頃、びっくりしたのは「むすんでひらいて」がフランスの哲学者ジャン・ジャック・ルソーの作曲だということでした。私の様な仕事をしている人の間では、けっこう有名な話らしく、私が知らないだけでした。
その昔、新宿辺りの歌声喫茶ではロシア民謡のブームがあったと聞いています。カチューシャ、赤いサラファン、トロイカ、山のロザリア、ヴォルガの舟歌などは盛んに歌われたのでしょう。
ロシアと言えば、つい最近知ったのですが、誰でもしっている「ねこふんじゃった」もロシアの曲とか。小さな頃ピアノで弾くことが出来る曲は、この一曲だけでした。
「おお牧場はみどり」は現在のチェコにあたるボヘミアの民謡、「おおブレネリ」はスイス民謡ですが、この二曲は現地ではほぼ忘れられた曲とのこと。「世界の愛唱歌」(長田暁二著)によれば、これらの地方の多くの人がアメリカなど外国に移民をして、望郷の歌として歌い継がれたらしい。
ほか列挙すると、
「旅愁」はアメリカのジョン・オードウエイ作曲
「埴生の宿」の原曲はイギリスのヘンリー・ローリー・ビショップが作曲した「Home Sweet Home」という曲に里見義が日本の歌詞をつけた曲、
「故郷の空」(♫夕空晴れて秋風ふきーーー)は スコットランド民謡
皆川おさむの大ヒット「黒ネコのタンゴ」はイタリアの童謡
まだまだ調べれば沢山ありそうですね
このような理屈はさておき、老人ホームなどで皆さんと歌っていると、なんとなく幸せを感じることが多いのです。
花の歌
『咲いた 咲いた チューリップの花がーーー』
この季節、散歩でよく見かけるチューリップ。
『――赤 白 黄色――』と、歌にあるように色とりどりの花が、目を和ませてくれる。
いろいろな花を愛でながらの散歩は楽しいものだ。ここ鎌倉山では先週まで、見事な桜が咲き誇っていた。私の愛唱歌、森山直太朗の「さくら」を思い浮かべながら桜吹雪の散る道を歩く。最近は路端に可憐な「シャガ」が咲き出した。
日本の歌には花をテーマにした曲が多い。
童謡や唱歌では「花」(♬春のうららの隅田川〜)、「みかんの花咲く丘」、冒頭に記した「チューリップ」、「花咲爺」、「花の街」(♬七色の谷を越えて〜)。
歌謡曲では「赤いスイートピー」(松田聖子)、「シクラメンのかほり」(布施明)、「ひなげしの花」(アグネス・チャン)、「世界に一つだけの花」(SMAP)など懐かしい。フォークソングでも「バラが咲いた」、「赤い花白い花」など花をテーマにした曲は多い。
先日、このページでも少し触れたが、東日本大震災復興の曲「花は咲く」は数多くの芸能人が歌った。
今、我が家の庭にはシャガ、姫リンゴ、ブルーベリー、苺、プルーンの花が咲いている。もうじきヤマボウシも咲くだろう。残念なことにこれらの花を歌った曲は思いつかない。「姫リンゴ」などは歌になりそうな気がするのだがーー。
昭和歌謡
先日、ギタリスト吉川忠英と濱口茂外也、ベース高木健司のライブに行った。ライブのタイトルには「昭和のミュージシャン云々」となっている。確かに出演者もお客様も、それなりの年齢が多かった。
オリジナル曲も披露されたが、昭和時代の曲「銀座の恋の物語」「僕は泣いちっち」、洋楽では「モナリサ」など、久しぶりに聞くことが出来た。
改めて、昭和歌謡について考えさせられた。
昭和歌謡とは? AIの解答によれば『昭和時代(1926~1989年)に日本で流行した大衆音楽の総称です。演歌、アイドルソング、フォーク、シティポップなど幅広いジャンルを含み、テレビやラジオ、カラオケを通じて全国的に浸透しました。(中略)作詞家、作曲家、歌手がそれぞれプロとして分業し、クオリティの高い“総合芸術”として制作されました。』となっている。
私の感じている「昭和歌謡」とは少し違う。私の苦手な演歌は問題ないとしても、フォークやシティポップは「歌謡曲」とは違うような気がする。
フォークでも、「おらは死んじまった」(フォークル)や「神田川」(南こうせつ)などは昭和歌謡に入るかも知れないが、ユーミンの一連のヒットは「歌謡曲」とは違うような気がする。
若かった頃、TBSラジオの昼ワイド「それいけ歌謡曲」という番組を担当していたことがある。スタジオは愛川欽也、見城三枝子、そして外からの中継は久米宏と平野レミが担当した。タイトルにもあるように歌謡曲がメインの番組だった。ちあきなおみの「喝采」石川さゆりの「津軽海峡・冬景色」テレサ・テンの「時の流れに身をまかせ」千昌夫の「星かげのワルツ」尾崎紀世彦「また遭う日まで」ピンキーとキラーズ「恋の季節」太田裕美「木綿のハンカチーフ」などが毎日のように放送された。まさに昭和歌謡まっ盛りだった。
音楽のジャンルにこだわること無く、今回のライブのように洋楽もあればオリジナルも、そして昭和歌謡もいい。
私のライブも同じ様な選曲が多い。「銀座の恋の物語」「蘇州夜曲」「どこかへ行きたい」「あのとき君は若かった」などは持ち歌としてよく歌う。
時代は流れ、ヒットする曲調もいろいろ変化するが、どうも最近の曲は、年寄りにはむずかしい。歌いながらダンスも踊れないし(笑)。
ベトナム民族楽器
今回のベトナムの旅、町を散策するときに楽器屋を探したが、田舎の観光地では商売にならないのか、とうとう見つけることは出来なかった。しかし、世界遺産のミーソン遺跡入口そばではステージで民族楽器の演奏や踊りが披露されているのを見ることが出来た。
ステージのある広い小屋は日陰で風通しもよく観光客で一杯だ。欧米人が多い。席はほぼ満席で私は後方の席から遠望するばかりだった。写真はクラリネット状の民族楽器を延々と息が続く限り吹くというアクロバティックな演奏だ。
吹き終わると大喝采を浴びていた。
その後、ダナンのドラゴンブリッジ周辺でのディナークルーズに参加した折に船の中のステージで民族楽器の演奏があり、やっと身近に見ることが出来た。
三人編成のバンド、楽器はダン・チャインという日本の琴を小型にしたようなものだが弦は金属だった。ダン・ニーという中国の二胡に似た楽器、そしてダン・バウという一弦琴だ。この一弦琴が実に面白い。すこし暗いステージなので、自席からは細い弦が見えず、はじめは初期の電子楽器テルミンかと思った。一弦でメロディーを奏で、ビブラートや不思議な共鳴音が聞こえるという楽器だ。
息のあった演奏をしばし聞いたものの、曲目は民族音楽ではなく「TOP OF THE WORLD」など、いかにも欧米観光客の受けを狙っているような気がして、ちょっとがっかり。
大勢の観光客はディナーや川から見る夜景に気を取られているのか拍手ひとつおこらない。ちょっと気の毒に感じたものだ。
ちなみに、ディナーは私の口にはすこし不満だったが、同行の若者選手達が全てたいらげてくれた。
機会があれば、旨い酒でも味わいながら、本当の民族音楽を間近に聞きたいものだが、この歳になると、再訪は望めないかも知れないな〜などと思いながら、ワインをすする私でした。
「花は咲く」
今回のホームページ更新で、他のページでも触れたが3/15は東関東大震災から15年だ。テレビ、新聞をはじめ広く取り上げられていたが、テレビで放送されるこれらの番組を見る限り、あの曲「花は咲く」について、またはBGMとしても取り上げられていないのが、ちょっと残念だ。もう忘れられてしまったかのようだ。(すべての番組を見ているわけではないので、そのような番組があったら失礼!)
「花は咲く」、東日本大震災の被災地および被災者の復興を応援するために制作されたチャリティーソングで、「NHK東日本大震災プロジェクト」のテーマソングとして使用するために企画制作した曲だ。
あの頃は毎日、しつこいほど何度も放送された。作曲者、作詞者、そして多くの歌唱参加者はすべて岩手県、福島県、宮城県にゆかりのあるタレントや歌手だ。
芸能界に疎い私でも知っている人が多い。梅澤富美男、新沼謙治、千昌夫、西田敏行、中村雅俊、さとう宗幸、生島ヒロシ、AKB48のメンバーなど、30名以上が参加したという。
NHK国際放送で世界中にも放送されたこともあり、しばらくして娘の住むカリフォルニアに行ったときもクラシックコンサートの最後に出演者に混じって私も歌った。
この季節になると、老人ホームや社会福祉関連のライブでこの歌を歌う。歌ってみるとけっこう難しい曲だということが分かる。
サビ部分「花は、花は、花は咲くーー」の部分は皆知っているが、ほかの部分は意外と知られていない。音域は1オクターブ以上あるし、長く、覚えにくい歌詞の曲だ。
私は、勝手に編曲し、冒頭サビから歌いだし、長さも半分ぐらいに短くして歌っている。
チャリティソングならば、もう少し皆が全曲歌えるような曲だったらいいのにと思うが如何だろう。
あの時、幼かった二人の孫も上は社会人に、下の孫は高校を卒業した。彼らがこの曲を覚えているかどうか分からないが、歌い継がれることなく、いつのまにか忘れ去られてしまいそうな気がしてならないのが残念だ。

ムーちゃんの思い出
蝶が舞いはじめる季節になるとムーちゃんを思い出す。私の所属していたバンド「モダンフォーク・フェローズ」(以下MFF)のメンバーだったムーちゃんこと新庄 駿君が急逝したのは2013年3月7日、はや12年も経つ。
彼はフォークグループ「ニュー・フロンティアーズ(以下ニューフロ)」のメンバーとして、高校時代から活躍、自費制作でLPもリリースし、注目されていた。
一方私は大学に入りMFFを結成したばかりだった。当時はフォークソングブームでもあり大学の先輩には「フォー・ダイムス」や「ランブリング・バーミンズ」などもいた。
MFFは何度かのメンバーチェンジもあったが、ニューフロからムーちゃんが移籍して以後が最も活躍した時期だ。ラジオやテレビにも何度か出演。EPレコードも何枚か発売した。ムーちゃんの美声とヴィブラートが響いた。
大学卒業とともにニューフロは「EAST」とグループ名を変え、プロとしてアメリカで注目を浴びていた。ビルボード誌の表紙も飾った。日本でもFEN(米軍放送)でも何度か放送された。
一方MFFはサヨナラコンサートを開き解散、みな社会人になった。
ムーちゃんは、何でも真剣に一所懸命に取り組む人だった。大学時代は試験の時期になると顔色が変わるぐらい勉強していた。趣味の蝶のコレクションも素晴らしいものだった。彼の没後に奥様から聞いた話では、私たちには内緒でギタースクールにも通っていたという。
MFFは1998年に縁あって再結成。それまでくすぶっていた「歌う楽しさ、嬉しさ」に再び火がついた。毎週のようにメンバーの自宅で練習した。学生時代の歌をはじめ、レパートリーも増えていった。そして徐々に色々なところから声も掛かり出演するようになった。ムーちゃんの美声は更に磨きがかかった。
そんなある日、ムーちゃんが緊急入院したという。そして、ほんの一週間足らずにムーちゃんは逝ってしまった。
追悼コンサートも計画され、彼を歌った「いつかまた」という歌も作った。残ったメンバーで練習もした。いろいろな演出も考えたものの、とうとうコンサートは実施せぬまま今日に至っている。
彼の代わりにメンバーを紹介してくれた人もいるが、ムーちゃんの代役は誰にも出来ない。そしてMFFはもう12年間冬眠している。
現在ムーちゃんの歌声を聞くことが出来るのは吉川忠英のCD「フーテナニー」におさまっている「Early Morning Rain」の一曲だけだ。妙なめぐり合わせで、ニューフロのメンバーだった吉川がギターを弾いて、MFFはコーラスだけで参加している。
この季節になると私は自分のライブで、あの「いつかまた」を歌っている。歌う度に目頭が熱くなるが、こらえて歌う。
春、蝶が舞うのを見る度にムーちゃんのスマイルを思い出す。
歌集
私がギターと一緒にいつも持ち歩いているファイルがある。表紙には「Noppe 100 Songs」とある。各ページには私がいつでも歌えるレパートリー100曲の歌詞とギターコードが記されている。
8割が英語の曲だ。ロックもあればフォークソング、ジャズもすこし入っている。日本語の曲は、私のグループ「モダンフォーク・フェローズ」のレパートリーをはじめ森山直太朗の「さくら」、ビリーバンバンの「白いブランコ」などフォークソングもある。また、歌い継がれている美しい日本の歌、「ふるさと」、「里の秋」、「蘇州夜曲」なども入っている。
ライブのお誘いがあると、このファイルを参考に選曲することが多い。ライブはだいたい1時間半から2時間ぐらいが多い。途中十分ほどの休憩を挟むと全部で16から18曲を選曲することになる。
この百曲のなかで、いままで最も多く歌っているのが「ふるさと」だ。アンコールの定番としてよく歌う。この曲は、第二の国歌とも言える歌だと思っている。
話はそれるが、最近の若者は「君が代」が歌えないという。いろいろ主張はあると思うが法律で定められている国歌なのだ。嘆かわしい限りだ。
私が作った歌集は、もう一冊ある。それは老人ホームや社会福祉関連のイベントに招待されたときに、会場の皆さんと合唱するような百曲のリストだ。おもに昔から歌い継がれてきた童謡や唱歌が多い。
老人ホームと言っても入居者の年齢は私とさほど変わらないので「バラが咲いた」や「この広い野原いっぱい」、「若者たち」などヒットしたフォークソングなども入っている。
この二冊の歌集があるものの、ふとしたことがきっかけで忘れていたヒット曲なども思い出し、歌いたくなる。サイモンとガーファンクルの「4月になれば彼女は」やプレスリーの「好きにならずにいられない」なども最近思い出した曲だ。現在放送中のNHKの連続テレビ小説、「ばけばけ」の主題歌「笑ったり転んだり」も歌ってみたい曲だ。歌詞がなかなか微妙で良い。
二冊あわせて200曲ものレパートリーがあるものの、素敵な曲は際限がない。悩みはただ一つ。最近は歌詞が覚えられないのだ。
ピンチヒッター
「ノッペさん、急なご相談ですがライブをお願いできますか」
電話が入ったのが先週月曜日。
「いつですか?」と私。
「あさってです」
びっくりしたものの、会場も近いし、その日はなにも予定が入っていなかったのでお受けすることに。
よくよく話を聞いてみると、福祉イベントを開催するが、2部の余興として落語を予定していたものの、その落語家が急病にかかってしまい、そのピンチヒッターとして、という話らしい。
何十年も弾き語りをしていると、いろいろな事がある。数年前にもピンチヒッターを頼まれたことがあるが、それは予定していたシンガーソングライターの都合が悪くなった為だ。この場合は大した問題もなく、なんとか穴埋めした。しかし、今回は落語の穴埋めだ。弾き語り以外に芸のない私のような者で務まるのだろうか。お客様はがっかりするかも知れない。しかし主催者はさぞかし困っていることだろう。いろいろな心配と不安に包まれて、当日を迎えた。
アンプや機材とギターを背負って、すこし早めに会場に行く。まだ一部のセミナー形式の催事をやっている。とりあえず控室に通される。
しばらくすると「おまたせしました」と、スタッフの人に案内され、ステージに。
機材をセットし、軽くサウンドチェック。
(こいつはいったい何者なのかーーー)と、お客様も不安だろう。
とりあえず軽く自己紹介、ご挨拶代わりに「きらくに行こう」(1970年代のモービルガソリンのCMソング)を歌い出した。お客様の手拍子が徐々に増えていく。皆さん、思っていたよりノリが良いのだ。なんとなく安心。
細かいことは聴いていなかったので、いつまでやれば良いのかステージ上からスタッフに質問する。お客様もリラックスして笑っていた。
最後は森山直太朗の「さくら」でシメるつもりが、「アンコール、アンコールーー」
それではと、私の十八番「ふるさと」を会場全員で大きな声で歌い無事45分間の弾き語りを終え、なんとかピンチヒッターも務めることができた。
これに味をしめる訳では無いが、困ったときのピンチヒッター、ご用命、お待ちしています。
アメリカが産んだ最大のヒット
エレキギター
日本と比べ、アメリカ合衆国の歴史は浅い。建国して、まだ約250年だ。しかし、この短期間にアメリカで発明されたものは多い。電球、電話、飛行機、身近なものではボールペンもシャープ・ペンシルもアメリカで生まれたものだ。
そして音楽の世界でもアメリカで生まれた楽器は多い。アコースティックギター(フォークギター)、バンジョー、フラットマンドリン、ハモンドオルガン、スティールギターなどある。
一方、日本で発明された楽器は何があるのか調べてみたが、大正琴ぐらいしかない。タイプライターのキーにヒントを得て、だれでも容易に演奏できる楽器を作ったとされている。そのほかの琴、笛、太鼓などの古典的な楽器は、殆どが大陸経由のものだ。
話をアメリカに戻す。
フォークギターは、バンジョーの大きな音に対抗するために鉄弦を張ったのが起源らしい。1833年にドイツ系移民のクリスチャン・フレデリック・マーティンが発明したとされている。あの有名なマーチンギターだ。
しかし、何と言っても世界中の音楽文化に貢献したのは、エレキギターだろう。
タラレバの話だが、エレキがもし発明されていなければビートルズも、ローリング・ストーンズもプイレスリーもベンチャーズもいなかった。というよりロックという音楽ジャンルはなかっただろう。
エレキはまさにアメリカが産んだ大ヒットだ。
ジャズ・ギタリストがアコースティックギターにピックアップをつけて電気的に大きな音を出るようにしたのがはじまりらしいが、今のエレキのようなソリッドタイプ(普通のギターのようなボディには空洞がなく一枚の厚い板)に至るまでは試行錯誤があったようだ。最初に発売したのはレオ・フェンダーという人らしい。これも有名なフェンダーギターだ。1949年とのこと。
そう考えると、エレキは私より若いのだ。たった77年の歴史しかない。
驚くべきは、発売されてすぐ、1950年代にはチャック・ベリー、バディ・ホリー、ビル・ヘイリーなどが、エレキギターを用いたロックンロールで大ヒットを数々飛ばしている。
私が、はじめてバンドを組んだのは中学生の頃、ベンチャーズのコピーバンドだった。日本製テスコ製のエレキを親に買ってもらった。
あれから六十余年。いまだギターにはまっている。
ゴスペルソング
三十年ほど前になるが、故山本コウタロー君とジャマイカに音楽の取材に行った。ジャマイカといえばレゲエ音楽だ。当地の録音スタジオやアーティストなどの取材をしたものの、大物アーティストの殆どは、アメリカに住んでいることもあり、取材旅行としては消化不良だったのを覚えている。
ジャマイカと言えばブルーマウンテンコーヒーが有名だ。せっかくなのでコーヒー農園にも行ってみた。畑では多くの農夫が働いている。多くは黒人だった。ちょうど昼時なのか、畑の中の掘っ立て小屋のようなところに集まり、やにわ親分格と思われる一人が大きな声で歌いだした。ワンフレーズを歌うと集まった多くの農夫が、追いかけるように歌い出す。また親分が歌い、そして繰り返される。そのリズム、アカペラの熱い熱唱とハーモニーに鳥肌がたった。
私がはじめて本当のゴスペルソングに出会った思い出だ。
ゴスペル(Gospel)は、1920年代にアメリカの黒人教会から発祥した、キリスト教の「福音」を伝える音楽ジャンルだ。
最近、You Tubeでザッピングしていると、とても無理のないメロディの馴染みやすい英語の歌に遭遇した。Steven Woodという人が歌っている「In The Garden」という曲だ。これなら自分のレパートリーに加えられるような歌だ。さらに探してみると、この曲を多くの歌手が歌っている。どうやらアメリカでは一般に広く知られている曲のようだ。アメリカでは大人気だが、日本では殆ど知られていないカントリーの大物シンガーAlan Jacksonも歌っている。
歌詞を見ると文章の途中でも三人称単数現在系(中学の英文法で教わったよね、懐かしの「三・単・現」)がHis、Heのように大文字で書かれている。そう、これはGodを指す場合に使われる。つまり、この歌はゴスペルソングということがわかった。
話題はそれるが、日本のコーラスグループ「ゴスペラーズ」は名ばかりでゴスペルソングは歌っていない。ただアカペラでのコーラスをゴスペルと思っているようだ。ついでに、日本人で本物のゴスペルシンガーと言えるのは故小坂忠ぐらいだろう。彼はプロミュージシャンの傍ら牧師としても活躍していた。
話を戻す。
ゴスペルというと、なんとなく日本人には馴染みが薄いと思うもののけっこう有名な曲もある。フォークソングとして知られている「This Little Right」や「Nobody Knows The Trouble I’ve Seen(誰も知らない私の悩み)」もそうだ。また内容から判断すればサイモンとガーファンクルのヒット「Bridge Over Troubled Water(
明日に架ける橋)」もそうだ。
不思議なことにクリスマスソングとして歌われることの多い「Amazing Grace」も一種のゴスペルと言えるだろう。ただしこれらの歌はアカペラで歌われることはあまりない。音楽のジャンルについて詳しいことは知らないが、これらの曲はスピリチュアルソングとも言えるだろう。
新しいレパートリー「In The Garden」を練習をしながら、ジャマイカで聴いた熱狂のハーモニー、あのゴスペルを懐かしく思い出す。
MFQライブ
1/23久しぶりに都内に出て、曙橋バック・イン・タウンにて「モダン・フォーク・カルテット」(以下MFQ)のライブに臨んだ。
会場は満席、プロ・アマを問わず多くのミュージシャンの顔もチラホラ。
MFQ、メンバーは眞木壮一郎、麻田 浩、吉田勝宣のオリジナルメンバーに加え津田りつ子の四名。(マイク眞木さんは、このグループで出演する時は本名で出演している。)
数年前にオリジナル・メンバーの重見(ギター、ヴォーカル)さんが亡くなられた後、しばらくして女性パーカッショニストの津田さんが加わり、クワルテットをキープしている。彼女、以前はこの店の従業員でもあった。MFQとのめぐり合わせもこの店だ。
オリジナル・メンバー三名は全員81歳。眞木さん曰く「世界最長老のフォークグループ」とのこと。
そう言われれば確かに、六十年代当時から活躍した多くのグループは解散したり、メンバーが亡くなったりと、活動できない状態だ。そう言う私達のグループ「ザ・モダンフォーク・フェローズ」もメンバーの一人が急逝して以来、冬眠したままだ。生き残り組は、お互いに連絡は取り合っているものの、オリジナル・メンバーの三人はみな一人暮らしになってしまった。
今回のMFQのステージは、例によってとてもショーアップされ、演奏はもちろんのこと、見事に、且つ無理なく演出されたショーは、相変わらず冴えていた。長い間彼らのステージに接していることもあり曲目も馴染みのある曲ばかり。
今となっては仕方がないものの、故重見さんの「スコッチ アンド ソーダ」を聞くことが出来なくなったのは残念至極。
私の個人的な事情で、今回は第一部しか見ることが出来なかったが、それでもとても楽しいライブだった。
会場から外に出て寒風吹きすさぶ中、心は何故か温かい後味のライブだった。

コレクターにモノ申す
学生時代にはモダンフォーク・フェローズというバンドで、それなりに活躍したと思う。約20年前に「Noppe Live」と銘打って、ソロの弾き語りも始めた。ほかにも、長い間には色々な方々とのジョイントもしてきた。私はフォークギターとヴォーカルがメインだ。下手なりにも永い間続けていると、いつの間にか所有するギターの本数も増え、今はLowdenとTaylorの2本のメインギターの他にMartinとヤマハのギターも時々使う。それぞれに個性があり、曲調や会場の条件などにより使い分けている。
欲深爺としては、ほかにもArvin Somogiなど欲しいギターはあるものの、数百万円とあまりに高価なので「夢のまた夢」だ。クラシックギターに至っては更に高価なギターもあるのだろう。
世の中にはコレクターと言われるギターマニアが意外に多い。
楽器は弾いてこそ、その本領を発揮するもの。いかにも大事そうに温度湿度調整されたガラスのショーケースに飾られているギターを見ると、なんともったいないことをしているのだと思う。
ギターに最高の木材ジャカランダ(ブラジリアン・ローズウッド)はワシントン条約で原則として輸出入できない。その昔、富裕層向けに家具の材料として大量に伐採されたため絶滅危機になったという木だ。ギターの材料としても貴重な木でもある。これらの素晴らしい木材から作られた楽器がコレクターにわたり、飾り物として、弾かれることなく多く存在するのが、とても残念でならない。
バイオリンのストラト・バリューは世界中に六百本ぐらいしか存在しないという。それに比べれば、フォークギターなんて大したことはないのかも知れないが、価値は、それを弾く人によってかわる。
今、所有するギターに文句があるわけではないのだが、もっと自分にあうギターがあるかもしれないと、「終(つい)のギター」探しとして、先日御茶ノ水界隈の中古ギターショップ巡りをした。有名な店を3店めぐり、気になったギターの試奏もさせてもらった。気になるギターは数本あったものの、その値段に尻込みし、結局手ぶらで帰宅した。これらの素晴らしいギターが、いわゆるコレクターの手に渡らないことを祈るばかりだ。
お正月ライブ報告
「歌う門には福来る」
1/10(土)、今年最初のライブを鎌倉山倶楽部で開催。強風にもかかわらず多くの方がいらっしゃいました。いつも応援をありがとうございます。
年初のライブは何を歌おうかいろいろ考えましたが、前半はフォークソング調の曲を、後半はちょっとおしゃれな曲ということで選曲。
久しぶりに歌う曲や新曲などご披露しました。
翌日、譜面や資料を整理しながら、気がついたのですが、結果として映画のテーマ曲や挿入歌が多かったことです。
今回のライブ2部制で計17曲を歌いましたが、そのうち以下のように5曲が映画の挿入歌としてヒットした曲でした。
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曲名 |
映画 |
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Sound Of Silence |
卒業 |
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Raindrop Keep Fallin On My Head 雨に濡れても |
明日に向かって撃て |
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Smile |
モダンタイムス |
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Can’t Help Fallin In Love 好きにならずにいられない |
ブルーハワイ |
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Endress Love |
エンドレスラブ |
これらの内、「スマイル」は、以前から歌ってみたかった曲。今回初めての挑戦でした。
この「スマイル」はチャーリー・チャップリンの作曲で、1936年の映画「モダンタイムス」のラストシーンで使用されました。この「モダンタイムス」は、チャップリンが監督・製作・脚本・作曲・出演をこなしています。(彼の多彩な才能にはびっくりですね。)
映画ではメロディだけの演奏でしたが、後にジョンターナーとジェフリーパーソンズが素晴らしい歌詞をつけ、その時にはじめて「Smile」というタイトルがつき、ナットキングコールが歌って世界的な大ヒットとなったということです。
歌詞の内容は、ざっくり訳せば「笑う門には福来る」。
お正月らしく「歌う門には福来る」ともとれるかな!
次回は4月12日(日)、皆様のご来場とリクエストもお待ちしています。
お正月の歌
毎月定例の某老人ホームでの出前ライブでは、唱歌、童謡、昭和の歌謡曲、たまには「ロンドンデリーの歌」、「峠の我が家」、「ジングルベル」など有名な外国の曲などを選曲することもある。
毎回、なるべく季節感を大事にしながら選曲する。単純に「春」とか「夏」というような大きく括ったテーマなら沢山の曲がある。クリスマスも日本オリジナルの曲は少ないが外国の曲なら掃いて捨てるほどある。ところが「正月」に皆さんと歌える曲は意外と少ないのだ。
「一月一日」<年のはじめのためしとて 終わり無きよのめでたさを〜>は、問題ないだろう。
タイトルに「お正月」となっている曲の歌詞は、<もういくつねるとお正月〜>と、内容は年末に歌う曲だ。
仕方なく「富士の山」、「春よこい」、「雪やこんこ」なども入れることになる。
今年の干支は「午」なので「馬」が出てくる曲もさがしたが、意外に少ない。コジツケなら
「金太郎」<熊にまたがりお馬のけいこ>、
「雨降りお月さん」<お嫁に行くときゃ 誰とゆく お馬にゆられて 濡れてゆく>
色々探したら「走れトロイカ」もあった。(トロイカはロシア語で三頭立ての馬車のことらしい。女性のヘア飾りもたしか「トロイカ」っていったよね。あれはなんだろう?)
今年は箱根駅伝にちなみ「箱根八里」もリストに入れた。(青学はすごかったな〜、早稲田の一年生も頑張ったねーー)
このように、老人ホームで皆さんと歌う選曲は、なかなか難しいのですが、入居者の皆さんの楽しそうな表情を見ていると、自分も幸せな気持ちになれるのです。
毎回、皆さんに言っていること。それは
「大きな声で歌うことが元気の源です。」
今年のライブ
去年は年間33回の弾き語りライブをやった。ここ数年では最も多かった。
2003年11月、58才から「Noppe Live」と称して始めた弾き語りライブだ。始めたきっかけは、きたるべき定年だった。(当時、私の務めていた会社は60才定年制だった。実際に引退したのは63才だったがーー))
定年になってから何かを始めるより、今のうちからはじめたいと思った。私に出来ることは音楽と木工しかない。ということで始めたのが弾き語りライブだった。
最初は我が家から、すぐそばのカフェで歌わさせてもらった。
2,3回やっていたら近所からクレームがつき、警察官が会場まで来るような状況だった。(その店は、それからすぐに廃業した。)
その後、今までライブハウス、老人ホーム、町の集会所等いろいろな会場でいろいろな思い出がある。能舞台や美術館でも歌ったことがある。(能舞台は、何故かとても歌いやすかったな〜)
そして、今年は通算500回目のライブになりそうだ。
今年決まっているライブはそれほど多くない。毎月恒例の某老人ホーム、年に四回の「ティサロン鎌倉山倶楽部」でのライブ、5/17には「第二回鎌倉山ミュージックデイ」にも参加する。あとはクリスマスや年末に毎年恒例の三箇所のライブが入っているぐらいだ。
多分5月頃になるが、500回記念ライブは多少大掛かりでやってもいいかなと思うものの、まだなにも決めていない。
去年の年末は忙しすぎた。回数が多くなると、徐々にいい加減になってくるので、今年は一回一回を、一曲一曲を丁寧に歌おうと思っている。
作詞作曲
その昔は、プロの作曲家、作詞家が曲を作り、ヒットさせたものだった。
例えば永六輔作詞、中村八大作曲、の「六八コンビ」だ。
「明日があるさ」「黒い花びら」「遠くへ行きたい」など今でも歌い継がれる曲が多い。そして坂本九が歌った「上を向いて歩こう」はアメリカでも大ヒットとなった。俗に「六八九トリオ」の曲は、その後も予定されていたが坂本九が飛行機事故で他界したために継続はならなかった。
その後、フォークソングブームに乗って、素人が作詞作曲することが多くなった。そしてユーミンを代表とするシンガーソングライターが活躍することになる。
恥ずかしながら、私も何曲か作詞作曲している。記憶に残る最初の曲は高校生の頃だ。アメリカ帰りの友人「カズ」が英語で作詞をし、私が曲をつけた「Bye Bye Hippies」という曲だ。当時のヒッピーブームを歌っている。
大学のころ「モダンフォーク・フェローズ」というグループを結成し、それなりに活躍していた。私たちは前田武彦さんにとてもお世話になっていた。渋谷の某ライブハウスでコンサートを開いたとき、前田さんにも来ていただいた。その会場のそばに、とても古ぼけた「小川はかり店」があった。前田さんは、今にも崩れ落ちそうなこの店舗を題材に作詞をして、私たちに提供してくれた。そして私が作曲した「小川はかり店」という曲もある。
オーボエ奏者のために「Morning Glow」と題した曲を書いたこともある。夜の闇が徐々に明るくなり朝日が登るまでの状況を書いた。この曲は演奏曲として書いたので歌詞はない。
さらにグループのメンバーが急逝したときにはメンバーの一人が作詞、私が作曲した「いつかまた」という曲もある。
他にも自分で作詞作曲した曲も何曲かある。
しかし、これらは人前で歌われることはない。何故? とても他人に披露する自信もないし、特に作詞に関しては、その内容が小恥ずかしい限りだ。なんとなく他人に自分の心を読まれているような気もするので怖気付いてしまう。その点、プロの作詞家はすごいと思う。
いつの日か、胸を張って披露できるような曲を書きたいと、ずっと思っているうちに、もういい歳になってしまった。
来年は80才、この歳だから書ける曲でも作ることができれば良いのだがーー。
クリスマス・ソング
アメリカは他民族、他宗教の国ということもあり、最近は「メリー・クリスマス」とは言わず「ハッピー・ホリデー」と言うことが多くなったろいう。そしてクリスマスソングも「ホリデー・ソング」と言われているらしい。
日本でもクリスマスは、いまやお祭りみたいなもので、キリスト生誕の日という意味合いは、寒風とともにどこかに吹き飛ばされてしまっている感がある。
クリスマス、元を正せば言わずと知れたキリスト教の行事である。当然ながらクリスマスソングも英語の歌が圧倒的に多い。「きよしこの夜」「赤鼻のトナカイ」など日本語に訳されて浸透している曲も多いが、日本のオリジナル曲で一般に広く知られ、皆で合唱出来るような曲は「あわてんぼうのサンタクロース」ぐらいだろう。(この曲もけっこう難しいがーー)
山下達郎の「クリスマスイヴ」、松任谷由実の「恋人がサンタクロース」なども広く知られているが合唱できるようなやさしい曲ではない。
ということもあり、この季節、私が町の集会所や老人ホームなどに乞われて弾き語りをする時は、どうしても英語のクリスマスソングが多くなる。誰でも知っている「ホワイトクリスマス」、「ジングルベル」も英語で歌う。
そんな中であまりポピュラーではないが、私の好きな「プリーズ・ダディー(Please Daddy)」という曲もよく歌う。
「故郷へかえりたい」で有名なジョン・デンバーのオリジナル曲だ。
内容は8歳になった子供がおとうさんに訴える内容だ。
『去年のクリスマス、お父さんが帰るのをお母さんと待っていたのに、夜遅くお父さんは酔っ払って帰ってきた。お母さんは泣いていたよ。だから、今年のクリスマスは酔っ払わないでね』
この歌を歌う度に、現役のバブル時代を思い出し、もしや娘たちも同じ気持ちだったのかなと、いつも反省しながら歌う始末だ。
今年は例年になく多くの会場でクリスマスソングを歌った。頭に赤いサンタ帽をかぶり、足に鈴をつけて拍子をとりながら歌う。最後は「きよしこのよる」を会場の皆さんと大きな声で合唱するのが定番だ。
歌い終わり機材や楽器などを片付けていると「また、来年もよろしく」と言われることが多い。
年に一度だけの訪問。私はもはや「歌声サンタ(三太)」なのかも知れない。
プロアマ
プロフェッショナルとアマチュアの差は何なのか。スポーツによってはプロテストのような制度もある。しかし絵画、彫刻、音楽など芸術には、そのような決まりや規定はない。
金銭の授受があればプロなのか。これも疑問だ。とてもプロの技を持っているとは思えない人たちがテレビなどではもてはやされ、高額な収入を得ている。
ネットで「プロとアマ」で検索すると、いろいろな意見が出てくる。「主たる収入となっている」とか、「常に成長意識している」、「プロとしてのプライドがある」などあるが、「プロとは何ぞや」という決定打は見つからない。
結局は、本人がプロとして認識しているかどうかによるようだ。
音楽と言っても幅広いが、ここからは私の関わっている軟弱派の音楽界の話だ。
ライブや録音などで、一緒になった本当のプロのプレーヤーはすごい。大げさに言えば、なんでもこなせる。例えば、初めて会ったプロの演奏者でも、当日1回だけのリハーサルさえすれば本番は間違いない。時間がなければ、控室などで私が鼻歌でも歌えば、本番でちゃんとバッキングをこなしてくれる。彼らはギターなど楽器でミスタッチがあっても、瞬時のリカバーで聞いている人には、ほとんどわからないほどだ。
私は、ライブなどで時々「Noppeさんはプロだからーー」と言われることもあるが、私本人は、とても疑問だ。歌にしろ、ギターにしろ習ったこともないし、演奏技術も未熟で、とてもプロとは言えないと思っている。しかし、微々たる額にせよ謝礼をいただくこともあるので、俗に言う「セミプロ」なのかも知れない。
私のような人も、一定額の入場料をとってステージに立つ人は多い。しかし、私は常々気になっていることなので、最近私の弾き語りライブは、俗に言う「投げ銭」形式にした。お客様各人が私のライブに、それなりの評価をしていただき、それに応じた金額を、用意した箱に入れていただく形式だ。評価に値しなければ金を払わなくても良い。一曲でも感激してくれたら、それなりの対価を箱に入れていただければ良いのだ。同じ会場で、同じ様な歌を歌っても、その時によって最終的な金額はけっこう違うものだ。これも、また面白い。
それにしても、学生時代に遊び半分で始めた音楽も、幸せなことにもう60年ちかく続いている。「継続は力なり」とは言うけれど、いつまで経ってもプロにはなれない私なのです。
(251214)

悩み多きリハーサル
お陰様で年に30数回のライブをやっている。一人での弾き語りは良いとして、グループでの出演や、初めて一緒にやるプレーヤーとのジョイント、歌手の伴奏などを頼まれる時には、それなりの準備とリハーサルが必要となる。簡単な曲なら、当日開演前の合わせで、どうにかなる場合もあるが。基本的には事前のリハーサルをやるべきだろう。
そこで毎度の悩みはリハーサル場所だ。特にドラムスやエレキなど大きな音を出す楽器とのコラボの場合は防音設備の整ったリハーサル会場が必要となる。いわゆるレンタルスタジオだ。しかし、長時間にわたるリハーサルなどはそれなりに費用がかかる。ウッドベースやドラムスなど大きな楽器のプレーヤーは駐車場代もかかる。
予算の都合で、安く済むカラオケ屋で練習やリハーサルをしている人もけっこう多い。私がよく使うのは鎌倉芸術館の練習室とスタジオだ。二重の防音扉など完璧な防音施設だ。レンタル料は都内と比較すれば遥かに安い。会員登録さえしてあればネットで予約もできる。
都内の音楽用のレンタルスタジオでは部屋に入ればアンプ類やドラムセットなどは用意されているが、芸術館の練習室・スタジオは、がらんとした空間だけだ。音楽以外の芝居の稽古やハワイアンなどダンスの練習にも対応するためだろう。仕方なく楽器の他にもアンプやマイクなどの機材も全て持ち込んでのリハーサルになる。予約すればドラムスやピアノなど、ある程度の楽器ならレンタルもできるが、その料金は細分化されている。例えばアンプを持参した場合、電源を使うことになるので1回の電源使用量は240円となる。
それでも車で都内まで行くことを考えれば気分的にも楽だ。
問題は、リハーサルを練習と取り違えている人が意外に多いことだ。予定曲の基本的な練習は独自にすませてからリハーサルにさんかしてほしいものだ。リハーサル当日はタイミング調整や曲調、音のバランスなどの調整にあてるべきなのだが、人によっては、その場で練習を始めてしまったりと、なかなか思う通りにいかないものだ。
信頼できるリーダー格の人がいるといないとでは大違い。お互いに意見を言い合ったりしていると無駄に時間が過ぎていく。もちろん演奏技術の差により出来ること、出来ないことはある。かと行って技術的な練習は、いくら頑張ってもその場で簡単にできるものではない。
悩みの尽きぬリハーサル、それでも本番が上手く行けば皆嬉しいものだ。
以上のようなことから、最近私は、楽な一人の弾き語りが多くなっている。こういう考え方も如何なものかとは思うが、はたしていつまで続けられるか、これも今後の問題だ。
テラケーが逝った
11/18、ウエスタン歌手最後の大者、「テラケー」こと寺本圭一が亡くなった。93才だった。
その昔、「荒野の七人」「リオ・ブラボー」「真昼の決闘」など、映画館では多くの西部劇が上映され、テレビでは「ララミー牧場」「ローハイド」など西部劇のドラマが多かった。そして町ではウエスタン・ソングも流行していた。
日本で活躍していたウエスタン歌手、ウイリー沖山、ジミー時田、小坂一也、宮前ユキ、そしてこの度寺本圭一も逝ってしまった。
当時は、上記にあげたようなウエスタン歌手はとても人気が高かった。私は、六本木交差点そばにあったウエスタン・バーに何度か行ったことがある。その店でジミー時田さんに始めてお会いしたとき、なんとなく大者独特のオーラさえ感じたものだ。
最近は、西部劇も姿を消し、ウエスタン・ソングはカントリー・ソングと呼ばれるようになった。
カントリーソングは、今でも熱狂的なファンは多い。彼らは中小規模のライブハウスに集い、カントリー・ソングの演奏を楽しみ、口ずさみ、カントリー・ダンスを踊る。その姿はテンガロンハットにカントリー・シャツ、ズボンのベルトは大きなバックルでとめられ、窮屈そうなカントリー・ブーツを履く。歌手の芸名は横文字のファーストネームが多い。
彼らの世界では人気の歌手や演奏家はいるものの、昔のように世間でメジャーな人はいない。
当然ながらアメリカ本国では、カントリー(米語ではC&W Country & Western)ミュージックはそれなりにメジャーな音楽として今でも人気も高いようだ。この傾向は日本の演歌と似ていると思う。両者に共通なのはメロディやリズムは単調なものが多いものの、歌詞が主体となっている曲が多いことだ。ストーリー仕立てや悲しい恋の物語が圧倒的に多い。そういうことが影響しているかどうかは、分からないが、リズミックなダンス音楽中心の今の若者達にはあまり受けないようだ。
ウエスタン以外にも日本ではカンツォーネ、シャンソンなどがブームだった頃もあるが、今聞くことはほとんど無くなった。一方、カントリ・ミュージックとハワイアンだけは、まだ支持者が多いようだ。わかりやすく難しくないのが良いのかもしれない。
私は、最近のヒップホップ系やラップ系の音楽についていけない。やっぱり爺には単純なメロディとわかりやすい歌詞がいいのだ。
テラケーさん、長い間お疲れ様でした。御冥福をお祈りします。

ラジオと私
今年は、日本でラジオ放送が開始されて100年だ。私の音楽遍歴もラジオと深く関わっている。幼い頃から音楽は好きだった。音楽の成績はいつも良かった。中学生の頃から、洋楽ポップスに傾倒する。毎週末の午前中はラジオ各局で、その週のヒットパレード番組が放送されていた。ノートにランク表をつけていたのを思い出す。
エルビス・プレスリー、ポール・アンカ、コニー・フランシス、ボビー・ダーリン、リッキー・ネルソン、ブレンダ・リーなどのEPレコード、俗に言う「ドーナツ盤」を擦り切れるほど聴いた。
高校時代になると自分でもギターを弾くようになり。ベンチャーズのコピーバンドも結成した。
土曜の深夜にはアメリカン・ビルボード・トップ40が旧ラジオ関東(現ラジオニッポン)で放送され、湯川れい子さんが司会をしていた。その後何年もして、私のフォークソング仲間、ニュー・フロンティアーズがEAST という名前でアメリカでデビューし、ビルボードtop40にランクインした時は嬉しかったものだ。
平日の午前中にはFEN(極東放送網、Far East Network、現AFN American Forces Network)のウルフマンジャックの番組をよく聴いていた。
大学に入ると、自分でもフォークソングのバンドを結成し、ニッポン放送を始めラジオ各局に出演する機会も多くなった。そしてTBSに就職しラジオの音楽番組や深夜放送の制作をするようになる。
娘がアメリカに留学し、会いにゆくと、いつもサンフランシスコの放送局KBLXを聴いていた。心地よいジャズが一日中放送されていた。
振り返ればラジオとの付き合いはとても長い。
しかし、最近は音楽の舞台はテレビやネットに移った。そしてダンスが中心のグループが幅を効かせている。ラジオ世代の私としては興味が薄れた。
毎年末、紅白歌合戦は、殆ど見たことがないが、小田和正の「クリスマスの約束」は楽しみにしていた。その番組も2024年で終わってしまった。だんだん流行りの音楽から離れていく自分を感じる。
ラジオ局も、放送される音楽番組も変わった。今や音楽中心のラジオ局は弱小コミュニティFM局だけになった。
私のお気に入りは湘南ビーチFM(78.9)だ。喋りは極端に少なく、いつも音楽が流れている。貴重な放送局だ。湘南方面にドライブでお越しの節はおすすめです。

BGM
音楽は聞く音楽と演ずる音楽、そして大事なのはバックグラウンドミュージック(以下BGM)だ。
私は、下手なりに弾き語りをして半世紀。フォークソングが多いが、聞く音楽は60年代、70年代の洋楽ポップス、ロック、ジャズが多い。当時はラジオの音楽番組制作を担当していたこともあり、いつもその頃を思い出し、懐かしさにまぎれて聞いている。
さて、BGMが重要な役割をしていることは、あまり注目されていないようだ。
飛行機に搭乗すれば機内にはかすかにBGMが流れている。ホテルの宴会場などでも、床屋でも、本屋でも、気がつくと、かすかにBGMが流れていることが多い。
BGMには向かない音楽もある。ロックはもちろんリズム中心のボサノバやラテン音楽も向かないと思う。
バーの片隅で、ジャズ・ピアノの演奏があれば、酒もなんとなく美味しく、会話も弾む。昔、六本木にあったバー「パサテンポ」、横浜中華街のはずれにあったバー「ウインドジャマー」などで演奏されていた軽い流れるようなジャズ演奏は心地よく響いていたのを思い出す。
以前、赤坂のビルの一階にあった本屋で立ち読みをしていると素敵なアコースティックギターの音色が聞こえていた。他のお客様は気にならないようだが、私はアコギが好きなので気になる。多分ネットで配信されている曲だろうと思いつつ、とても素敵なので、一応店員に聞いてみたら、CDで流しているとのこと。そして、店員はわざわざ裏からCDジャケットを持ってきてくれた。私が初めて聴いた岡崎倫典の演奏だった。以来、彼のファンになり何枚かCDも購入した。
BGMがあるか否かでは、催し物の印象が変わってくる。例えば結婚式、新郎新婦入場の時などには、よく結婚行進曲が流れるが、もう一工夫し、和装なら琴、洋装なら弦楽四重奏などが演奏されれば一段と素敵な演出になる。
パーティなど開場してから開演のまでの間、なにもBGMが流れていないと、なんとなく心寒いものだ。
ちなみに、この文章を書きながら聞こえてくるのは振り子時計(上の写真)が時を刻む音だ。これもなかなか素敵なBGMである。
拍子
調べたことはないが、世の中の音楽の6割以上は4分の4拍子(4/4)だと思う。ワルツは4分の3拍子(3/4)だ。行進曲や軍歌、童謡など元気が出るような曲は4分の2拍子(2/4)が多い。4分の5拍子(5/4)で有名なのはジャズの「テイク・ファイブ」、身近な曲ではスパイ大作戦のテーマ曲も5/4だ。私は5/4の様な不規則な拍子の曲はまっぴらだ。現代音楽に至ってはいくら聞いていても何拍子かわからない曲も多い。
ビートルズの曲の中には、途中で拍子が変わる曲が多い。私がレパートリーに入れているAcross The Universeという曲は、途中で5/4が1小節だけ入り、その4小節あとに2/4拍子が1小節だけ入るという、やり辛い曲だ。何度か練習して、やっとできるようになった。
さて、クリスマスも近くなり、今年はジョン・レノンとヨーコ・オノのヒット「Happy Xmas (War Is Over)」を歌おうということになり、コード譜を書き出してみたものの、いったいこの曲は何拍子だかわからなくなった。とくに人目に晒すものでもないので6/8でコード譜は書くことにしたものの、資料によっては12/8となっている。6/8となっている資料も多い。さらに曲が進み、子どもたちのコーラスで盛り上がるサビの部分は3/4としか思えない。基礎的な音楽の勉強をしたことがない私には悩ましい問題だ。
ビートルズ世代には大ポピュラーな曲なので、上手く歌うことさえできれば、そんなことは気にしなくても良いかも知れない。
弾き語りを始めて幾十年、右脳頼りの音楽には限界を感じている。
何拍子など気にせずに、特に今年のクリスマスは、この歌を、ジョン・レノンのメッセージを、声高らかに多くの人と一緒に歌いたい。
“War is over, if you want it.”
まもなく、12月8日(12/8)は彼が射殺された日でもある。やっぱりこの曲は12/8拍子が正解なのだろうか。

校歌と校長の思い出
「もとうよ歌を くちびるに」、私が育った湘南学園の校歌の歌い出しである。いや、校歌とは言わず「学園歌」と言った。この年になっても一番の歌詞は頭の中に刻まれている。
私は幼稚園、小学校、中学まで、計11年間の幼少時代を、この学校で過ごした。運動会、文化祭、卒業式など、事ある度にこの学園歌を歌った。
当時の園長宮下正美先生が作詞・作曲をした曲だ。数ある学校の中でも校長が校歌を作っているのは珍しいと思う。普通は有名な作詞家作曲家に依頼して作るものだ。
例えば著名な音楽家團伊玖磨氏をネットで検索すると、ざっと見るだけでも100校以上の校歌を作曲している。
話を戻す。後に知ったことだが、当の湘南学園宮下園長は、児童文学者として著作も多いことから、校歌を作詞したのも頷ける。
私が小学校の6年生ぐらいまでは、この宮下先生が園長だった。たしか月に一回小学校3年生以上全員を講堂にあつめ、園長先生が舞台の上から、いろいろなお話をしてくれた。具体的な内容は覚えていないが、子供心にお話のうまい先生だなと、いつも面白く拝聴した。子供の心を掴むのがうまい先生だった。
高校からは慶応に行った。慶應義塾の校歌は「塾歌」という。応援歌の「若き血」は、早慶戦などで何度も歌うので、知っている人も多いが「塾歌」は外部の人は知らないだろう。なんとなく地味な曲だ。
校歌について調べてみると、不思議なことに東京大学には校歌がないことがわかった。もちろん応援歌や式典などに歌われる曲はあるものの校歌とは定めていない。
私の素晴らしき湘南学園時代、遠く富士山を仰ぎ、近く相模灘と江の島に臨み、校舎もグラウンドもすべて松に囲まれた明るい学校だった。
夢を歌う
昔の恋人に会った。彼女は昔のまま微笑みかけてくれた。どこだかわからないが二人きりで素敵なひとときを過ごしているところで、目が覚めた。明け方四時半だった。できれば目が覚めないでほしかった。
「夢で逢えたら」という曲がある。
『夢で もし逢えたら 素敵なことね あなたに逢えるまで 眠り続けたい』
まさにそんな気分だった。
大瀧詠一のオリジナル曲だが吉田美奈子やラッツ&スターの歌で聞いたことのある人も多いだろう。
この曲が気に入って、最近ライブでよく歌っている。歌いながら「あの人は、どうしているのだろう」「あの人の素敵なスマイル」など思い出しながら、心を込めて歌うのだ。できれば当時のあの人が聞いてくれたらと思うものの、願うべくもないことだ。 今頃は素敵な婆さんになっていることだろう。
夢を題材にした曲は多い。最近の歌は知らないが、年寄にもっとも馴染みの深い曲は「いつでも夢を」、1962年(昭和37年)橋幸夫と吉永小百合のデュエットの大ヒット曲だ。いっさいハモはつけず、全編ユニゾンでのデュエットということもあり、カラオケで歌うのもやさしいので、ジジババカップルには今でも人気の曲だ。
他にも、夢を題材にした曲では、昔のテレビ番組のテーマ曲「夢であいましょう」、井上陽水の「夢の中へ」、山口百恵「夢先案内人」などが思いつく。海外でもDreamの付く曲は多いが、私の大好きなのはパイド・パイパーズが1942年に放った大ヒット「Dream」だ。なんとも素敵なジャズコーラスに魅了される。ネットでも聞くことができるので知らない人は是非聞いてほしい。あのコーラスは、まさに夢見るコーラスと言えるだろう。
更に古い歌だが1930年代の「Dream A Little Dream Of Me」という曲もすばらしい。後にママズ&パパズのメンバーMama Cass Elliotがソロで歌っているのを聞いて大好きになり、私のレパートリーにも加えた曲だ。
いろいろと書いてきたが、年齢を重ねるごとに夢と現実の落差が広がっていくのは仕方のないことなのか。そんな年寄の気分を題材にした曲があればいいのにと思うが、どなたかご存知なら教えてほしい。
(251026)
金子さん逝く
音楽業界以外の人には、あまり馴染みはないかも知れないが、金子洋明さんが9月の末になくなっていたことをSNSで知った。81才だった。
彼は、日本のフォークソングの火付け役でもあり、学生による歌の祭典「ステューデント・フェスティバル」を立ちあげた人でもある。後に「ミュージカルステーション」という会社を作り、多くのアーティストを世に出した。私の知っているだけでも森山良子、五輪真弓、杉田二郎、せんだみつお、本田路津子が彼の世話になった。他にも加山雄三、松任谷由実、小野リサ、オフコース、チューリップ、桃井かおり等のステージ制作も、この会社が担当している。
私が大学生の頃、「ザ・モダンフォーク・フェローズ」というバンドを組み、ニッポン放送の「フォークビレッジ」という番組に何度も出演したことがある。曲は有楽町のニッポン放送のスタジオで録音された。金子さんは、その収録スタジオでアルバイトをしていたよう記憶している。
録音が終わり、スタジオとガラス張りで仕切られたサブ(調整室)に行くと、録音したばかりの曲を聞くことができた。そこで金子さんは、いろいろアドバイスもしてくれた。
大学卒業を前にして、私がテレビ局を受験する旨を伝えると、「おっこったらニッポン放送に来いよ」と、まるで社員のようなことを言っていたのが印象に残っている。
金子さんは、色々な顔を持った人でもあった。音楽プロデューサの他にも、1993年にはAct Against AIDS(AAA)という組織を作り、当時まだ理解の薄かったエイズの撲滅運動のためのコンサート、番組、各種のイベントも開催していた。また、東急文化村のプロデューサーとしても活躍した。
ウエスタンヨーデルを歌うことができる数少ないアーティストでもあった。「ヨーレイ、ヨーレイ、ヨーレイティ」とステージで楽しそうに歌う姿が思い出される。多くの人に音楽の楽しさを施してくれた金子さん、お疲れさまでした。御冥福をお祈りします。

もうひとつの還暦・MFF
気がついたら、もう60年も前のことだ。私が大学二年のとき、誘われてフォークソングのグループ「ザ・モダンフォーク・フェローズ」(以下MFF)を結成したのが1965年8月のことだ。男三人のグループだった。私はギターを弾けたが、他の二人は楽器を弾いたことはなかった。リーダーと言うか、首謀者のF君はどこからかギターを手に入れてきた。お金持ちのH君はすぐにウッドベースを買ってきた。鎌倉の由比ヶ浜から近いH君の家の応接間で練習を始めた。ブラザース・フォーのコピーだった。
記録によれば、驚いたことに2ヶ月後の10月には第四回「ファミリー・ジャンボリー」というコンサートのステージに立っている。何を歌ったのかまったくわからない。いくつものアマチュアバンドが出演した。同じ大学の先輩バンド「フォー・ダイムス」、小室等さん率いる「PPMフォロワーズ」、マイク真木さんの「モダンフォーク・カルテット」もいた。
翌年に先輩の紹介で、目の大きな女の子O嬢が参加。それまでブラザース・フォー一辺倒だったのが、女性が加入したことで、翌日からはピーター、ポール&マリーのコピーに変わった。節操がないというか、いかにも学生らしい身変わりの速さだ。その後、何度かメンバーの入れ替えはあった。一時は、後に直木賞作家になった景山民夫君が司会とベースを担当していた。ドラムスも参加し、6人編成になったこともある。伝説のフォークグループ「ザ・ニューフロンテイアーズ」のメンバーだったSくんも移籍した。しかし残念ながら、彼は2013年春に逝ってしまった。それを機にMFFは長い冬眠に入ったままだ。現在残っているMFFの残党は、日本フォークソング界の重鎮、ベースの吉田勝宣さん、首謀者F君、O嬢、そして私の四人になった。
ここまでF君を「首謀者」として記してきたのには理由(わけ)がある。もともと、彼が主催者の一員だった団体「ファミリー・ジャンボリー」の運営に会場費、出演料などで赤字が膨らんでいた。そこで、タダで出演してくれるバンドを作ろうと自らが画策したのがMFFだったのだ。のんきな私は、そんなこととはいざ知らず、ただ歌えることが楽しくて参加していた。この画策を知ったのは何年も経ってからのことだ。
しかし幸せなことに、その後ラジオやテレビにも出演し、レコードも出すことが出来た。今や幻のMFFも還暦を迎える。
六十年なんて、あっという間だ。
吉田さんと私は、生き残り組代表として、いまでも時々同じステージに立つ。首謀者F君、O嬢とも、たまに酒を酌み交わす。他にも音楽が縁で知り合った人は多い。すばらしき音楽仲間だ。
※冒頭の写真の曲は以下のYou-tubeで聞くことが出来ます。
https://www.youtube.com/watch?v=S5qKRi3njGs&list=RDS5qKRi3njGs&start_radio=1
秋の歌
『大きな栗の木の下で、あなたとわたし、仲良くあそびましょ、大きな栗のきのしたで』、振り付けをして踊りながら歌った思い出も懐かしい。ほのぼのとした童謡だ。これがイギリス民謡ということは以外に知られていない。戦後にアメリカ兵が歌っているのをヒントに日本の歌詞がつけられたらしい。(しかし、当時の文部省の方針により作詞者は不明となっている。)
「秋」を題材にした曲は多い。私は恥ずかしながら歌謡曲のことはよく知らないが、童謡だけとっても「秋の歌」はたくさんある。
「紅葉(もみじ)」、「小さな秋みつけた」、「里の秋」、「旅愁」、「案山子(かかし)」、「虫の声」、まだまだ沢山ある。みな、なんとなく秋の情緒が漂っている。リズミックな曲は、ほとんどない。
老人ホームや福祉関連のライブでは、参加の皆さんと一緒に歌うことも多い。
それらの曲の中でも「どんぐりころころ」には二つの思い出がある。
小学校低学年の頃の学芸会の思い出だ。私は「どんぐり」役だった。ステージ後方で同級生が整列してこの歌を合唱しはじめるころに私は頭にどんぐりの形をした帽子を被って下手から登場。ステージの上を横になってゴロゴロと転がって、上手に置かれた池を模したところに落ちる役だ。「お池にはまって、さあ大変――」のタイミングに合わさねばならない。ただ、これだけなのに妙に緊張したのを覚えている。
もう一つの苦い思い出は、M先輩に誘われてグループホームで毎月歌うようになってからのことだ。この歌の譜面を頂いて、その歌詞が「どんぐりころころどんぶりこ」となっている。私は、70才の頃まで、ずーっと「どんぐりころころどんぐりこ」と歌っていた。
はずかしい思い出は別として、私の秋の歌ベスト3は「里の秋」「旅愁」「赤とんぼ」だ。3曲とも日本の原風景が瞼(まぶた)に浮かぶ。
ただし、三曲とも良いのは一番だけだ。二番以後は、どちらかと言えば陰な現実を歌いこんでいる。まあ、みなさんが覚えているのは一番だけだと思うので、あまり深く掘り下げないほうが良いかもしれない。
日本と世界の大ヒット
『まいにち、まいにち、僕らは鉄板の上で焼かれてーーー』、おなじみ「およげたいやきくん」の歌だ。1975年に大ヒットしたこの歌が、日本で最も売れたシングルヒット、ということは広く知られている。その数457万枚、いまだにこの記録は破られていない。もっとも、最近のヒットはYou-tubeやダウンロードが主流なので、比較するのも難しくなっているかもしれない。私も老人ホームなどでは、入居者の皆さんと一緒に歌う曲だ。オリジナルはとても長い曲なので、勝手に編曲し「老人ホームヴァージョン」として歌っている。
それでは、世界で一番売れた曲は何だろう。なんと約5千万枚も売れた曲がある。それはビング・クロスビーが歌う「ホワイト・クリスマス」、1942年の録音だ。未だにこの記録は破られていない。あのエルビス・プレスリーでさえ1960年に「It’s Now Or Never」で2千万枚、ビートルズでさえ1962年に「抱きしめたい」で1700万枚だ。
順を追って調べると、売上12位に坂本九の「上を向いて歩こう」(アメリカでは「スキヤキソング」)がランクインされている。1961年のヒットだ。その売上枚数は、なんと1300万枚となっている。
「泳げたいやきくん」の比ではない。日本人で世界一売れたのは坂本九だったとは気が付かなかった。
話を戻して「たいやきくん」を歌った子門真人に支払われたギャラはたったの5万円だった。レコーデイングに際して、歌手は売り上げに応じたギャラか、その時だけの録音料収入かを選択できる。前者の契約を選択した場合、ヒットしなければ収入は微々たるものである。
子門は、まさかあれほどのヒットになるとは思わなかったのだろう。なんとも気の毒な話だ。
ビング・クロスビーはどうだったのだろう。よくわからないが、もし売上枚数に応じた契約をしていたら、とんでもない金持ちになっていただろう。彼は1977年ゴルフ場でプレイ中に心臓発作で亡くなっている。74歳だった。
一方、子門真人は現在81才、すっかりマスコミにも顔をだすことはなくなった。軽井沢に住んでいるという噂もあるが、詳しいことはだれもしらない。どこかで、ひっそりと暮らしているらしい。
私が乗り換えで利用する大船駅のルミネ2階には、たいやき専門店がある。そこを通る度に、あの歌をなんとなく思い出す。

思い出のウクレレ
青春時代には夏の海辺でダッコちゃん(今の若い人は知らないだろうな)を片手に巻き付け、よくウクレレを弾いた。その後ウクレレとギターの高音4弦のコードの抑え方は同じということを知り、その後はギター一辺倒になり、ベンチャーズのコピーに浸っていた。
そして、今から54年も前、1971年(昭和46年)私は24歳という若さで結婚した。結婚披露宴でもグループでギターの弾き語りを披露した。 当日の夜、羽田空港からハワイへと飛び発った。新婚旅行、よくある定番コースだ。細かなことは忘れたが、どこかのツアーに参加したのだろう。私にとっては高校生の頃以来2度目のハワイだった。
ホノルルに到着、空港に降り立つと首にきれいなレイをかけられた。ホテルにチェックイン。当日の晩に開催された(多分ツアー会社が企画した)ウエルカム・ディナーのようなイベントに参加。ホテル内の大きな宴会場のような部屋で、いくつもの丸テーブルを囲み、大勢の観光客が集まっていた。ステージではハワイアンバンドが演奏し、フラダンスも披露された。今から考えれば、ごく当たり前の観光ツアーコースだ。食事の内容などは全く覚えていない。
宴も酣(たけなわ)の頃、ステージで大抽選会が始まった。小さなプレゼントから始まり徐々に3等賞、2等賞と盛り上がっていく。私は、このような抽選で当たったことがないので、当然今回も、と諦めていたが、なんと1等賞で呼ばれたのは私の名前だった。びっくりして、周りの人からの拍手に送られステージに上がる。そして司会者から渡された賞品が、あの有名な「カマカ」製のウクレレだった。
私はウクレレについて詳しくはないが、ウクレレと言えば「カマカ」と「マーチン」が有名だ。帰国後もよく弾いていたものの十年も経った頃、ネックがはずれそうに緩んできた。面白そうなので自分で直してみようと、本体からネックを外し、ついでにフレットも、糸巻きもすべてはずし、きれいに磨き上げてから組み直した。
あれから数十年、徐々にウクレレを弾くことはなくなったが、今でも本体とともに、素敵な思い出も大切に保管してある。
編曲
カントリーソングといえば、昔は鼻にかけた田舎っぽい歌い方が主流だった。ジミー時田、寺本圭一、小坂一也もみなそうだった。私は、そのような歌い方が好きではなかった。あのジャンバラヤに代表されるハンクウイリアムスの作品は、そんな歌い方が似合っていた。最近はカントリーソングも随分変わってロック風な曲も多くなったのは時代の流れだろうか。
最近、断捨離の一環として大量のCDの整理をしているが、そんな折、久しぶりにLttle WilliesというグループのCDを聞いた。(このグループには、あのノラ・ジョーンズが参加している。)そして、彼らの歌うハンク・ウイリアムスの名曲Lovesick Bluesを聞いてびっくりした。あの田舎臭い曲が、なんとも素敵なアレンジで心に響いた。そのハーモニーと言い、ちょっとオシャレなコード進行と言い、なんとも素敵だ。アレンジによって、既成の曲もこれほど変わることに驚いた。
ビリー・バンバンの大ヒット「白いブランコ」は、レコーディングが全て終わってから、冒頭のトランペットのイントロをつけくわえるというアレンジがされたのは、仲間内では有名な話だ。あの響き渡るトランペットの音がとても印象的だ。
もともとの曲に伴奏をつけたり、ハーモニーを付けたり、ときには奇想天外な飾り付けをする、簡単に言えば原曲に「肉付け」をするのが編曲・アレンジだ。
奇想天外と言えば、クレイジー・キャッツの「スーダラ節」のイントロに隠し味としてファゴットが使われているのは知る人ぞ知る話だ。およそクラシック以外には使われない楽器を伴奏につかうという魔法だ。
ジャズの分野ではフォーフレッシュマン、マンハッタン・トランスファーのハーモニーがすばらしい。あのようなハーモニーはどのように生まれるのか、オーケストラのオーボエ奏者に聞いたことがあるが、その方曰く、和声学を勉強しないとできない技だと言われた。たしかに、よく聞けばバックのハーモニーにはコードに含まれない音も経過音として入っている。パイド・パイパーズの「ドリーム」など冒頭のハーモニーを聞いただけで気分がトロ〜ンとしてしまう。
クラシックからジャズ、歌謡曲、ロックにいたるまで、全ての音楽を盛り上げるのはアレンジャーの仕事だ。最近はシンガーソングライターと称する歌手が活躍しているが、とても素敵な歌詞でありながら曲調がつまらないものも多い。きっとプロの編曲家が手をいれれば、もっと素敵になるのにと思いながら我慢してテレビの歌番組を見る私なのです。
響き
「響」と言ってもサントリーの超高級ウヰスキーの話しではない。言わんとしているのは「音の響き」だ。音楽はもとより、街中に、家の中に、各種の響きが聞こえる。雑音や不快な響きも多い。その響き、昔とは違いその大部分がデジタルな響きに置き換えられてきた。家の中ではテレビ、ステレオ、パソコンは言うに及ばず、キッチンタイマー、目覚まし時計、さらに最近の洗濯機は「センタクガオワリマシタ」と無味乾燥な声が響くらしい。
外へ出れば、踏切の警報音も、電車の発車ベルも、いつのまにかデジタル音に変わっている。駅によっては、居もしない鳥の鳴き声までスピーカーから聞こえてくる。
私の愛用している補聴器(これもデジタル)には、これらがキンキンと響く。たまに都会に出れば雑踏の響きに疲れを感じる。
人間はアナログだ。マイクやスピーカーなどを介さない、人の声、アコースティックな楽器の響きに心の触れ合いを感じる。
私が年に4回実施しているライブ「Noppe Acoustic Live@鎌倉山倶楽部」では、音響機材は一切つかわない。ギターはアンプを通さず、歌はマイクも使わない。裸の響きを大事にしている。
たまに、ゲストに歌ってもらうことがあるが、普段マイクに慣れている人は、どこに向かって歌えば良いのか、とまどうようだ。なれないうちは私もそうだった。
歌う声の大きさ、感情の込め方、ギターの爪弾きも全て「まる裸」の響きだ。ピアノやヴァイオリンなどクラシックは別として、ギターの弾き語りで、このような定期的なライブをしている人は(私の知っている限り)私だけと自負している。
収容人数20名ほどの小さな会場だからできることだが、今のところは嬉しいことに毎回ほぼ満席になる。
このライブ、次回は10月11日(土)午後3時開演だ。一度、裸のNoppeの声でも聞いてやろうという殊勝な方は、早めのご予約を。(予約は[email protected] まで。)近くには駐車場はないので遠方から来る人は京急バス利用となる。詳しくはメール宛お問い合わせください。
ミュージックチャージは無料の投げ銭ライブだが、どんなに頑張っても、ウヰスキー「響」の差し入れは期待できないだろうな!
以上、今回はライブのお知らせにて。

夏のライブ総決算
せわしなく、そして熱暑のうちに、8月は4回のライブに参加した。ひと月に4回というのは、それほど多い数字ではない。昨年の年末は12月だけで6回のライブに参加している。
しかし、回数が多くても大概はソロライブ、もしくはなじみのユニットに参加することが多い。
しかし、この8月は、頭を悩ませるライブが続いた。というのも4回が全て違うグループ、しかも新曲が多かった。
都内のライブハウスでは4人編成のWISHというグループのメンバーとして参加、「WE ARE THE WORLD」や「五つの銅貨」(三人が同時に違う曲を歌い合わせる)などの難しい曲もあった。
夏恒例の西鎌倉の郷土料理屋でのライブは、何度も一緒にやっている三人組ユニットだが、新曲「海の声」は沖縄をテーマにした曲。あの蛇味線はないので、代用にバンジョーを使用、久々の練習を何度もしなければならなかった。
いつもはソロでやっている老人ホームは、当日急にパーカッショニストが加わることになり、ぶっつけ本番。
最後の鎌倉山集会所でのライブは初めて組むバンド。とうとう当日まで、全員の練習予定が組めず、新曲も多かった。バックコーラスがスペイン語の新曲もあり、すべてカタカナに書き直すというアンチョコも作らねばならなかった
練習しなければならない新曲は、スマホに録音し、毎朝骨伝導ヘッドフォンで聞きながら散歩をした。車に乗っても新曲ばかり繰り返し聞いていたものの、とても暗記など出来ず、譜面台を見ながらのライブだった。
それでも、なんとか無事にすべて終了したが、とても褒められたものではない。
補聴器をかけながらの音楽活動には限界を感じ、自分主催のライブは計画しないことにしているが、声をかけられれば断れない性格だ。結果、下手なギターの伴奏やバックのコーラス、やったこともない新曲が多くなる。まあ声をかけられるだけでもありがたいと思っている。
猛暑の中、汗をかきながらの練習結果、本番は冷や汗のほうが多かった。そんな忙しない夏も去ろうとしている。
おはなし
「ズーニーブー」というグループサウンドが1969年にヒットさせた「白いサンゴ礁」という曲を覚えている方も多いと思う。このグループのリード・ヴォーカル町田義人のハイトーンの透き通るようなリードヴォーカルが懐かしい。
彼は、このバンドを結成する前、学生時代に「キャッスル&ゲイツ」というフォークソングのバンドを組んでいた。何度か一緒のステージに上がったこともあるが、存在感のあるグループだった。彼らについての細かなことは忘れたが、彼らのオリジナルソング「おはなし」という曲が印象深い。メロディにも優しい雰囲気があり、私は今でもライブや老人ホームなどで時々歌っている。
文末に歌詞を乗せるが、<恋する女性が彼に向かって、一日中いろいろな事を話す。あなたは聞いてくれるでしょう。>という内容だ。(興味のある方はYou-Tubeでも聞くことができるので聞いてほしい)
話は変わるが、この「おしゃべり」、「お話し」について常々思うことがある。人によって考え方は違うと思うが、「話す」という行為についての男女の考え方の違いだ。
例えば友達と会って、いろいろと雑談などした後で、別れ際の挨拶だ。男性の場合、多くは「それじゃまた」とか「近々またやろう」などというのが多いが、女性の場合は「お喋りができて楽しかった」、「お話しを聞いてくれてありがとう」など「会話」を目的として人と会うことが多いように思う。このような挨拶は男性同士の場合は、(少なくとも私の場合)ほとんどない。女性を差別しているわけではないどころか、この「おはなし」という行為は知らず知らずのうちに脳を刺激し、女性の平均余命が長いのも関係しているような気がする。よく喋る人は物覚えが良いようにも思う。
ここ数年、私は一日中誰とも話さないことが多くなった。それと比例して物忘れ、とくに人の名前、お店の名前など固有名詞が出てこなくなり、イライラすることが多くなっている。そんな時、女性を交えた食事会などに参加すると、「ああ、このおしゃべりが大事なのだな」と思う。
キャッスル&ゲイツの曲「おはなし」のように、いつも素敵な女性がそばにいてくれれば老化も鈍化するのだろうが、今となっては、はかない夢と諦めるしかない(のかな!)。
沖縄の音楽
マイケル・ジャクソンが幼い頃参加していた兄弟グループ「ジャクソン・ファイブ」に対抗したわけではないかもしれないが、その昔、沖縄出身の「フィンガー・ファイブ」という兄弟グループがあった。今風に言えば、アイドルまがいの人気だった。ソウル系の曲が多かったように思う。
同じ1970年頃、やはり沖縄出身の陽焼けした元気な女の子「南沙織」も「17才」という曲が大ヒットした。その後も、安室奈美恵、夏川リミ、BIGIN、THE BOOMなど沖縄は数多くのアーティストを排出している。
戦中、戦後を通じ、アメリカ軍が駐留していることもあり、沖縄には彼らを対象としたライブハウス、バーなどが点在している。そこでは常にアメリカのロック、ジャズ、ソウルミュージックなどが流れていることも、多くのアーティストを排出してきた一つの要因かもしれない。
沖縄を題材にした曲も多い。THE BOOMの「島唄」、BIGINの「島人ぬ宝 (しまんちゅぬたから)」、最近は浦島太郎に扮した桐谷健太が、海を見ながら歌う「海の声」という曲はCMでも使われている。これらの曲には共通した「琉球音階」が使われている。
沖縄音楽の特徴は、独特の「琉球音階」と、三線(さんしん)の音色、そして沖縄口(うちなーぐち)で歌われる歌詞にある。琉球音階は、西洋音楽の「ドレミファソラシド」から「レ」と「ラ」の音を抜いた「ドミファソシド」の5音で構成されている。ピアノでもギターでも身近な楽器でこの5音を弾くだけで、なんとなく沖縄ののんびりとした雰囲気が出るから不思議だ。
他にも夏川りみの歌でヒットした「涙そうそう」や、森山良子が熱唱する「さとうきび畑」が印象的だ。「ざわわざわわ」という印象的なフレーズとともに10分以上の長い曲だ。さとうきび畑の下には戦争の多くの犠牲者が眠るという反戦歌だ。
私が現役の頃、日本航空の提供番組を担当していたこともあり、何度も沖縄には行き、現地から生番組も放送したものの、本当の琉球音楽を聞く機会には恵まれなかった。できれば、元気なうちに改めて当地を訪ね、綺麗な海と琉球音楽を楽しみたいと思っている。

久々の都内ライブ
酷暑の中、重いギターと着替えなどの荷物を背負って、久々の都内でのライブに参加した。都内で(乞われての出前ライブは別にして)一般公開のライブハウスに出演するのは、いつ以来だろう。思い出せないほど以前のことだ。調べてみたら2020年1月に赤坂の「アンベ・クワトロ」という店で歌った以来のことだ。5年半も前のことになる。あの店もコロナの煽りをくって閉店してしまった。以来、今日まで70回以上のライブはほとんどが湘南でのライブとなった。
今回の会場は赤坂の「STAGE 1」というライブハウス。「メリーメーカーズ」のライブにゲストとして出演した。私、カズ、ノン子、そしてタケシの四人で「WISH」というグループでの参加だ。お互い同じ1960年台後半のフォークソングブームに活躍した仲間だ。

メリー・メーカーズは 結成して約60年。現在もオリジナルメンバーのまま、活動を続けているのは素晴らしい。彼らは当時「スチューデントフェスティバル」というフォークソングの団体に所属して活躍していた。私の所属していたグループ「ザ・モダンフォーク・フェローズ」とともにニッポン放送の番組「フォーク・ビレッジ」に度々出演した仲間でもある。
客席は、満席。彼らの母校である自由学園の仲間がほとんどだ。彼らの綺麗なハーモニーはお客様達を魅了する。一部が終わり、いよいよ私達の登場だ。とくに紹介もなく、突然歌い出した我々に戸惑いも隠せないようだった。
なんとか(トチリも度々だったが)九曲を無事にこなし、メリー・メーカーズの第二部がはじまる。
私は、それまで我慢していた酒を一気にあおる。熱暑のせいか、久しぶりの都内での出演のせいか、緊張がほぐれたためか、気がつけば酩酊状態。それでも、夜遅くになんとか電車をのりついで帰宅した。
頭の中には、最後に歌った「WE ARE THE WORLD」がこだましていた。気がつけば、その日は八月六日、広島に原爆が投下され八〇年のその日だった。
夏・淡い恋
あなたは、夏といえばどのような音楽を思い浮かべますか。ハワイアン、レゲエ、野外コンサート、盆踊りなど。
夏は他の季節と違い、音楽の種類も音楽の思い出も多いもの。私も幼い頃、松本にバイオリンのレッスンを受けに行った思い出や、初めてジャマイカに行ったときに当地で聞いた本物のレゲエミュージック、新婚旅行で行ったハワイで見たフラダンスの思い出など、夏は音楽の思い出がいっぱいあります。
そんな中で、特に印象深い思い出は、淡い恋の思い出とともにポーランドで踊った盆踊りです。あれは、たしか高校生の頃、日本のユースホステル代表団約30名の一員としてポーランドで開催されたユースホステル世界大会に参加。世界各国の若者たちが集まりました。
日本団はまずオランダに入り、バスでイタリー、ドイツ、スイス、オーストリアなどを巡りました。宿泊は全て当地のユースホステル。オーストリアからは列車でチェコを通過して目的地ポーランドまで行きました。
大会では、各国の代表団が各々の民族衣装に身を包み、大きなステージで代わる代わる音楽の演奏をしたり、ダンスを踊ったりしました。そこで日本団は、盆踊りに似せた舞台で炭坑節をご披露。日本を発つ前から、「掘って、掘って、また掘ってーー」と、何度か練習をさせられたものです。私達は全員浴衣を来て踊りました。上の写真のように、各国の華やかな民族衣装とは違い、地味だなあ、と思ったのを覚えています。それでも日本の黒髪・黒い瞳の女性たちは大人気。男性の浴衣姿は目立たないし派手さにも欠けているせいか、あまり注目を浴びなかったような気がします。
そんな約一ヶ月にも及ぶ長い旅行の間、いつも側にいてくれた素敵な女性に淡い恋をしました。たしか3歳ぐらい年上だったと思います。関西に住んでいる彼女とは帰国後も彼女の家に行ったり、彼女が我が家に泊まりに来たりしていました。しかし、そんなお付き合いも徐々に遠のき、いつの間にか縁遠くなり、線香花火のような淡い恋となりました。
つい2年ほど前に約60年ぶりにこの団体メンバーの同窓会が都内のホテルで開催され、私も参加。彼女とも無事再会することができました。やはり上品な素敵なお婆さんになっていました。懐かしい話を沢山しましたが、当時の淡い心の内を伝えることは出来ませんでした。(笑っちゃいますね!)
夏になると、彼女と行ったオランダの木靴屋さん、一緒に泳いだスイスのプール、暮れゆく夕陽に輝いたアルプスの山々などを思い出します。若い頃のちょっと酸っぱい淡い恋の思い出でした。
作詞家 青島幸男
青島幸男といえば、放送作家、タレント、政治家、直木賞作家、そして作詞家としても活躍した「超マルチタレント」だ。
彼が作詞した「明日があるさ」は、1963年に坂本九が歌い大ヒットした。高齢の方ならだれでも知っている歌だ。内容は若かりし頃の恋の思い出をメンメンと綴ったもので、なんと六番まである。
恋した女の子に声をかけることも出来ず、やっとデートに誘っても、とうとう「好きです」と言えなかった。『若い僕には夢がある いつかきっとわかってくれるだろう、明日があるさ』という内容だ。はたしてこれは青島自信の思い出なのかどうかはわからないが、この「明日があるさ」という打算的ともとれる考え方が好きだ。
一方、青島が作詞した大ヒットといえば「スーダラ節」がある。「わかっちゃいるけどやめられない」という歌詞が、私事でも、事ある度に思い出す。そして、私のような大酒飲としては一番の歌詞を歌う度に「そうなんだよな〜」と頷いてしまう。
『ちょいと一杯のつもりで飲んで
いつの間にやら梯子酒
気がつきゃホームのベンチでゴロ寝
これじゃ身体にいいわきゃないさ
分かっちゃいるけどやめられない
あソレ スイスイスーダラダッタ スラスラスイスイスイ〜』
この「明日があるさ」と「スーダラ節」はグループホームや老人ホームなどでも、度々入居者のみなさんと一緒に歌ってきた。歌いながら、あの頃を思い出している方も多いと思う。
青島幸男は1960年代を代表する音楽バラエティ番組「ザ・ヒットパーレード」の演出も手掛けた。楽しい番組だった。当時、大活躍していた「クレイジー・キャッツ」も、今となってはハナ肇以下七名全員がすでにいない。青島も逝った。世代の違いもあるが、最近のテレビには心から楽しませてくれる番組がないと思うのは私だけではないと思う。
悩ましきは楽譜
なんでもいい加減な私、木工をやれば完成度は低い。音楽やれば自己満足程度のことしかできない。なんでも基礎が大事だが、音楽の基礎たる譜面が大の苦手である。
一時は某音楽教室で3年間ほど「ギター弾き語り教室」の先生を務めたこともあるが、もともとギターや歌い方など習ったことはなく、すべて自己流。譜面も苦手。どのように教えて良いかも手探りだった。
「これではいかん」、ピアノを習えば否が応でも譜面と付き合わなければならないと、会社の帰りに「大人のピアノ教室」に通ったこともあるが、長続きはしなかった。何をやるにも自己流。教えるのも、教わるのも苦手だ。
某有名歌手は麻薬で逮捕され留置所に入れられた。彼は、その留置期間に必死に勉強をし楽譜が自由に読み書きできるようになったという話を聞いたことがある。そして出所後、沢山のヒット曲を生み出している。

譜面と言えば、2017年にNHK-BSで森山直太朗のバッキングを担当した経験を思い出す。話を頂いたときは、嬉しいほうが先に立ち、深く考えずに承諾してしまった。「録画が近くなったら譜面を郵送します」、と言われたものの、自宅に送られてきたのは録画の二日前だった。そこには私が歌うハーモニーの譜面とギターコードが描かれている。ギターはなんとかなりそうだが、譜面にかかれた音を読み解くのが大変だった。それでも、冷や汗をかきながら、NGも出さず、なんとか無事に録画。後日放送され、私の名前も表示されたのは嬉しかった。
今も相変わらず楽譜は苦手だが、ライブなどでサポートしていただく方のために仕方なく楽譜を書くこともある。すべてはパソコンでの作業だ。手抜きだが、全てハ長調で書いてから、最後に一斉に移調することにしている。多くのプロのミュージシャンも使っているとても便利な楽譜制作アプリだが、2年ほど前に、このアプリの全ての更新もフォローも終了してしまった。最新のPCへの対応もできないので、しかたなく、このアプリだけは私の昔のPCで行っている。
このパソコンが壊れたら、わたしの楽譜制作は壁に突き当たる。もっとも、その前に私が壁に突き当たっているかもしれない。
そんなことはさて置いて、素晴らしいことに、楽譜は世界共通だ。たとえ話が通じなくても楽譜がよめれば一緒に演奏することも可能だ。
あらためて苦手な楽譜の重要さを身につまされる思いで感じている昨今である。

ライブご報告
七月五日、「鎌倉山倶楽部」で四回目のライブをやった。会場は20席程度の小ぢんまりとしたティーサロンということで、この時代には珍しくギターにはアンプも繋げない生の音、歌もマイク無しという「アンプラグド・ライブ」だ。
今回は、私の伴奏で兄も2曲歌い、ほかにも相棒のナカちゃん、そして一時帰国の娘もパーカッションで付き合ってくれた。先日開催したイベント「鎌倉山ミュージック・デイ」のスタッフも何人か来てくれた。ありがたいことだ。
私のライブは、初めてから3回目で以後の継続の可否を決めることにしている。第一回は初物の珍しさ、お付き合いもあり、声をかければそれなりに人は集まってくれる。二回目までは、お付き合いしてくれる人も多い。
しかし、三回目でお客様の人数が極端に減ったら、以後はやらないほうが良い。お客様としても何の取り柄もないライブには、おつきあいも長続きはしない。
この4月、同じ会場で問題の三回目のライブをした。前日にお店で簡単な打ち合わせした際には、お店側も何人来てくれるか、全くわからないとのこと。翌日、不安を抱えて実施したところ、以外にも多くの方が来てくださった。そして、今回のライブに至ったというわけだ。なんとなく波に乗れたようなので、以後は年に4回ぐらいのペースで続けていこうと思っている。
このホームページで何度か触れているが、ここ鎌倉山はバスの便が徐々に減り、とても不便になった。一般の人が使えるコインパーキングもない。中には不便なバスや自転車でわざわざ来ていただける方もいるが、ほとんどのお客様は、ご自宅から歩いて来られるご近所の方達だ。
しかし、この不便の効用か、私のライブがきっかけで、ご近所付き合いが始まったという方もいると聞く。
この会場の直ぐそばにあった「ヴォーノ」というレストランで、初めてソロライブをやってから20年、地域の皆さんと音楽を通じての絆が深まっているのを実感している。
※次回のライブは10/11(土)午後3時からにきまりました。
健康は音楽から
私はこの年齢にしては比較的健康だと思う。しかし、昔から耳の病気「耳管開放症」
には悩まされてきた。この病気は、自分の声が頭蓋骨に共鳴するような、というかトン
ネルの中で話しているように聞こえるものだ。じつに不愉快なこの症状だが、この症状
が出始めると鍼治療に行けば、しばらくはおさまる。
本来耳も遠いので、日常的に補聴器を使用している。しかし、命に関わるような呼吸器
系や消化器系は今のところ問題はないようだ。(ボケは確実にすすんでいるがーー)
私の健康は、毎日のウオーキングに効するところが多いと思っていたが、音楽に携わ
っていることも大いに関係あるということが、最近わかった。
英国エクセター大学の研究によれば、日常的に音楽に関わる人ほど、前頭前野・聴覚野・海馬の灰白質の量が多いことがMRIで確認されたという。記憶、集中力、判断力を司るこれらの脳部位が、音楽経験者では実年齢より若く保たれているらしい。
たしかに、毎朝シャワーを浴びた後のヘルスメーターによれば、私の体内年齢は63才と表示される。実年齢より16才若い年齢だ。この差は、「ながら聴き」ではなく、歌詞の意味を考えたり、楽器やボーカルの違いを聴き分けたりする「能動的なリスニング」をしているかどうかで、さらに顕著になるらしい。
とくに能動的ではなく、受動的に音楽を聞いてもその影響は多いとのこと。
具体的には、リラックス系のクラシック、アコースティック系の音楽、アンビエント系(環境音楽)が特に効果的とされ、聴くだけで心臓の負担が軽くなるらしい。20分間リラックス系の音楽を聴くだけで、ストレス時に高まる交感神経の過活動が鎮まり、心拍のゆらぎが回復。これが「血管の若返り」「心臓発作の予防」に繋がるというわけだ。
私は、できる限り新薬は服用せず、必要なときは漢方薬か鍼治療でなんとかなっている。西洋医学はレントゲンやCTスキャン、MRIなどで人間の目に見えるところしか治療できないのに対し、東洋医学は人間の目に見えない病原にも効くという。私は大の東洋医学ファンだ。
今回、音楽が東洋医学にも似たような働きをしてくれるということを知り、音楽好きの私としては嬉しい限りである。
ヤマハ楽器博物館
前回の「浜松市楽器博物館」に続き、同じ浜松市に君臨する「ヤマハ楽器博物館」のご紹介だ。
この博物館はヤマハ本社の中にある。見学には予約が必要だ。外の受付で入館証をもらい、1階受付で予約の確認をする。入館料は無料。私達が訪れたのは午前10時頃、12時まで自由に館内を見学できる。

建物も外観もとても清潔且つピカピカに磨き上げられている。所々に遊び心もあり、横断歩道はピアノの鍵盤模様。会場入口に置かれた手の消毒スプレーのペダルはピアノのペダルが使ってある。
いざ入館。とてつもない広大なワンフロアーに各種のヤマハ製品が展示されている。楽器の多くは、誰でも演奏できるようになっている。ピアノ、ギター、管楽器が多いが、電子楽器や各種の音響機器も体験できる。
私はギターが気になり、エレキを含む各種のギターを試奏室に持ち込んで弾いてみた。同行したパーカッショニストの次女は、マリンバを試奏、トロンボーンプレーヤーの彼女の夫は管楽器を舐めるように眺めていた。
楽器だけではない。テニスラケット、オートバイ、アーチェリー、スキー、オーディオ製品など、ありとあらゆるヤマハ製品の大デモンストレーションである。
以外だったのは、車のレクサスのダッシュボードやドア周りのウッディパネルもヤマハが作っていることがわかった。ピアノやギターの生産で得た木工技術が役にたっているらしい。木目を選ぶ木取りから、加工、塗装、仕上げまで全て手作業で幾重にも及ぶ作業が実物を含め展示されている。レクサスの高価なのも頷ける。
そう言えば、数々の記録を打ち立てた名車トヨタ2000GTのエンジンはヤマハ製と聞いたことがある。トヨタとヤマハ、近所付き合いで仲も良いようだ。
たっぷり2時間の見学、例によってミュージアムショップを探したが、自動販売機で小物を売っているだけで、独立したショップはなかった。無くてよかった。もし、そんな所にギターでも並んでいたら、自制心も欠け、無駄遣いを逃れなかっただろう。ただ、この博物館にも図録がないのが残念だった。
市をあげての「音楽の町」作りも頷ける。私もすっかり、ヤマハファンになってしまった。
浜松市楽器博物館
今回の旅は、娘二人と次女の夫、そして8歳の孫の五名。次女とその夫はアメリカでプロのミュージシャンとして活躍している。恥ずかしながら筆者も、それなりにプロの端くれとして楽器との付き合いは長い。
みんな楽器大好きな一行である。
浜松駅周辺を歩いていると、いろいろな所に楽器のオブジェが置かれていたり、楽器屋があったりと、まるで音楽の町という感じがする。
今回訪れた「浜松市楽器博物館」も、市が「音楽の街づくり」の一環として設立した博物館とのこと。
浜松駅の近くにあるこの博物館、シニア(70才以上)は無料で入館できるのは爺にとっては嬉しい。
館内には世界中の楽器が2フロアに分かれ、アジア、オセアニア、アフリカ、アメリカ、ヨーロッパ、そして日本と、エリアごとにコーナーが分けられ、世界各地の楽器がズラリと約1300点も展示されている。
見たこともないような楽器、巨大な太鼓、何台ものピアノの脇には数台の小ぶりなパイプオルガンも展示されている。
更に、1階の奥には体験室があり、民族楽器などを実際に演奏することもできる。アフリカのカリンバ、モンゴルの弦楽器、日本の三味線、コンガやボンゴなど数々の打楽器などで遊んでいると時間を忘れる。
最後はミュージアムショップを覗く。作曲家や楽器にちなんだオリジナル商品が多かった。なかでも工芸品として音階別の八つのカスタネットが興味をひいたが、とても高価なので諦めた。博物館のショップとしては展示物の図録がないのが残念だった。
朝一番で入館したのに、気がついたらお昼すぎ。
熱暑の中をしばらく歩き、名物の「浜松餃子」とビールで渇きを癒す。
楽しい楽器とのふれあい、旨い餃子、温泉にもつかり、夜は居酒屋で乾杯、とても楽しい一日だった。
次回は「ヤマハ楽器博物館」のご紹介を予定しています。
<情報>
「浜松市楽器博物館」
https://www.gakkihaku.jp
静岡県浜松市中央区中央3-9-1
テネシー・ワルツ
そして鎌倉市歌
私の愛唱歌「テネシー・ワルツ」、1950年パティ・ページが歌って大ヒット、1952年には、当時14歳の江利チエミのデビュー曲でもある。
歌詞は「恋人とテネシーワルツを踊っていて、旧友が来たので恋人を紹介したら、その友達に恋人を盗まれてしまった」という内容だ。
アメリカの各州にはそれぞれ州の歌「州歌」がある。このテネシー・ワルツは1965年から81年までテネシー州の州歌でもあった。大ヒットした曲で、よく知られている曲に違いはないが、この歌の内容からして、州歌として取り上げるのは、いかにもアメリカという気がする。
他にも、よく知られている曲では、「You Are My Sunshine」はルイジアナ州、「故郷に帰りたい (Take Me Home Counry Road)」はウエスト・ヴァージニア州、「峠のわが家 (HOME ON THE RANGE)」はカンサス州、「GEORGIA ON MY MIND」はジョージア州の州歌として今でも歌われている。
日本でも各都道府県の歌があるが、皆がというか、地元の住民さえも知らない人がほとんどだ。
石原慎太郎が東京都知事のころに、彼が「誰も知らない東京都歌よりも東京音頭を都の歌にしてはどうだ」と提案したらしいが却下されたという話もある。
私の地元ではどうだろう。神奈川県の歌は「光あらたに」だそうだ。You-Tubeで聞いてみたが、やっぱり聞いたことのない曲だった。
さらに調べると鎌倉市歌というのもある。味もそっけもない「鎌倉市歌」というタイトルだ。
「1959年(昭和34年)に、鎌倉市市制施行20周年を記念して、美しい自然環境と豊かな歴史的遺産を持つ、古都・鎌倉のさらなる発展を願って作られた」、と市のホームページでは説明されている。
サザン・オールスターズが歌う「鎌倉物語」の方が、まだマシだと思うのだが如何だろう。年配の方々には、ちょっと歌いにくいかもしれないが、興味のある方はYou-Tubeで聞いてみてください。
<鎌倉市歌>の譜面は以下で見られます。
https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/hisyo/documents/sk-gakufu.pdf
余韻
クラシックのコンサートが終わる。一斉に拍手が響くまでの一瞬の余韻、これがクラシックコンサート独特の素敵な瞬間だ。ロックやカントリーなどのライブではこの瞬間がない。まだ、楽器の余韻が響いているうちに、われ先にと拍手が始まる。
それはそれとして、お客様が満足していただければそれでいい。コンサートやライブの余韻を心に宿しながら、その後に酒を酌み交わすのもいいだろう。
お客様はそれで良いが、演奏者側はそれで良いのだろうか。私はそうは思わない。演奏者、特に私はいつも何らかのミスが気になり、とても余韻に浸るような余裕はない。たとえ、ミスもなく無事に演奏が終わり、お客様には喜んで頂いても、余韻に浸っていると次に進めないような気がするものだ。終わったことは終わったこととして、「さあ次だ次!」、といったスタンスで居るほうが、わずかでも成長するような気がする。
楽器の余韻もしかり。私はギターのことしかわからないが、爪弾いたあとに、箱状のボディに残る余韻が良い。私の愛用している昔のスコットランド「ローデン」製の大きなボディに残る余韻が好きだ。
除夜の鐘は叩いた瞬間の音ではなく、実際にはブワ〜ンと響く残音、余韻を聞いているのだ。素敵な残響が響くように、釣り鐘を作る時は部分的に金属の配合を少しずらしてあるという。全く同じ配合の金属では共鳴してしまい、あのブワ〜ンと波を打つような余韻は残らないという。
旨いものを喰ったときも、その味わいの余韻に浸る。酒もそうだ。人により感じ方は違うかもしれないが、私は旨い日本酒の余韻が大好きだ。何も余韻が残らないような酒は、飲まないほうが良い。
素敵な人との別れは、なかなか余韻が冷めないものだ。
気がついてみると生活の中には沢山の余韻がある。
大ホールに響く余韻。そんな素敵な余韻が響くような人生をおくることができれば良いのだが、私はまだまだ修行が足りなさそうだ。
カントリー・ミュージックの巨匠二人が逝く
つい最近、日本におけるカントリー・ミュージックに貢献した二人のプレーヤーが亡くなった。ペダル・スチール・ギター奏者として日本における第一人者であった尾崎孝さん、そしてカントリー・ギターの巨匠Dr.Kこと徳武弘文さんだ。ともに73歳だった。
歳とった方たちには、ハワイアンで使われていたスチール・ギターのプワ〜ンという音色は懐かしいと思うが、その楽器を進化させたのがペダル・スティール・ギターだ。カントリーミュージック以外ではあまり使われないと思うが、演奏するには、両手で演奏し、両足でペダルを踏み、両膝でレバーを操作するという異常に複雑な難しい楽器だ。テクニック的に弦楽器の中では最も難しい楽器だと思う。
尾崎さんの演奏は何回も拝聴したことがある。私が飛び入りで歌ったとき、私の書いたコード譜の間違いを指摘されたこともあったが、いつも優しい和やかな人だった。「ピッキングクラブ」の主催者でもあり、ペダル・スティール・ギター奏者の育成にも熱心な人だった。
一方、カントリー・ギターの名手徳武さんは唯一無二のギタートーンと確かな演奏技術で多くのファンを魅了した。カントリー以外にも山本コウタロー、吉田拓郎、大瀧詠一、高橋幸宏、長渕剛などのレコーディングやライブ・サポートもしている。
そしてこの二人、尾崎さんと徳武さんが同じバンドを結成していたこともある。だからとかと言って、なにも二人そろって逝ってしまうことはないのにと思うが、甚だ残念だ。
きっと、天国でまたバンドを組んで演奏を楽しんでいるのに違いない。
現在、お二人の息子さん、尾崎博志、徳武弘文の両名がすでにプロの演奏家として高い評価を得ていることに、どこか救われるような気がする。
お二人の御冥福をお祈りします。
(250601)
大成功「鎌倉山ミュージック・デイ2025」
5月18日(日)鎌倉山に一日中、音楽が鳴り響いた。昨年から計画、やっと実現したイベントだ。4箇所の会場に合計50人以上の出演者、ジャンルもロック、ハワイアン、ボサノバ、クラシック等々様々だ。
私は出演者兼実行委員会のメンバーとして参加。前日の雨もあがり、朝8時半集合。「たけのこ広場」で会場の設営を手伝った。町内会の女性たちは、会場で販売する飲食の用意、主演者たちの食事の用意など一斉に始まる。
11時、実行委員長から挨拶、町内会長が開会宣言をして、いよいよスタート。
私は、スイーツがとても評判の「ル・ミリュー鎌倉山」に移動。外のデッキにはすでに、実行委員が観客席を20席ほどセッティングしてくれていた。ここは写真でわかるように、目の前は緑豊かな自然にあふれ、遠くには七里ヶ浜の海が臨める。当日はどんよりと曇っていたが、晴れていれば伊豆大島、利島まで見られる絶好のシチュエーションだ。
簡単にリハーサルも終え、出演を待つ。
徐々に近隣の方たちが集まり始め、演奏が始まる午後一時には、席も埋まり、さらに立ち見の方が30人ほどいただろうか。しかし、時折吹く風は徐々に強まり、私の次に出演するためスタンバイしていた「M&M」の座る椅子さえ強風で動いてしまい、彼らの譜面はあっという間に吹き飛ばされ、何枚かは奥深い谷に散っていった。そんな強風のなかでもお客様は最後まで手拍子を取りながら聞いてくださった。
私は10曲歌い、最後3曲は相棒「なかちゃん」とのデュエット、娘の「Yuri」がカホンでリズムを取ってくれた(写真)。
演奏後、私達はすぐに「たけのこ広場」会場に移動。ロックバンド「バックルカバー」とジョイント、その日限りの「鎌倉山バンド」として3曲歌う。最後は会場の皆さんと「花は咲く」を大きな声で合唱した。
その後も、屋内会場の「鎌倉山集会所」では、クラシックを中心に演奏が続き、満席で中にはいれなかったお客様たちは、外まで溢れ出しながら素晴らしい演奏に聞き惚れていた。
実行委員会副委員長より閉会の挨拶。すぐに、スタッフみんなで会場の機材、テントなどの撤去後、打ち上げだ。
委員会、町内会、出演者みんなで乾杯。予想をはるかに超える大成功をみなで祝った。
私も、これほど盛り上がるとは思っていなかった。私の演奏など、席が埋まれば成功とも思っていた。
音楽を通じてご近所の会話も増え、名前も知らなかった人と挨拶も交わし、鎌倉山全体が一つの「和」となった一日だった。
みんなで作った音楽イベント、すでに皆の心は来年の開催に向かっていること間違いない。
(250525)

怖い童謡
いろいろな老人ホームやグループホームで十年以上も弾き語りをやっている。童謡や唱歌が多い。小さなころから何気なく歌っている歌詞だが、何度も歌っていて突如妙なことに気がつくことがある。歌詞に込められた残酷な歌、怖い歌が以外に多いのだ。
人身売買や「口減らし」を歌ったものもある。昔は生活に困り、「口減らし」と言って子供を売ったり、他家に出すことが多かった。
「とうりゃんせ」の「行きはよいよい、かえりはこわい」という歌詞は、神様に子供を生贄としてささげに行く。行くときは子供と一緒、帰りは一人ということらしい。
他にも「はないちもんめ」は、口減らしのために花(子供)をいちもんめ(お金の単位)で売るという内容だ。
「赤い靴」の「異人さんに連れられて行っちゃった」、というのは外人に子供を売ることが歌われている。竹田の子守唄は子守に出される、という口減らしの内容だ。
一方、残酷な内容の歌も多い。
「てるてる坊主」の3番の歌詞は「てるてるぼうず てるぼうず あした天気にしておくれ それでも曇って泣いてたら そなたの首をチョンと切るぞ」とある。
その昔、お経を唱えて雨を止めることができる坊主がいたが、その坊主に雨を止ませるお経を唱えさせても、翌日になっても雨は止まず、坊主は罰として首をはねられてしまった。その坊主の首を白い布に包んで吊るすと翌日から晴れ、てるてる坊主の風習につながったという伝説に基づいているらしい。
「あんたがたどこさ」では「たぬきを鉄砲で撃って煮て焼いて食べるーー」とある
「山寺の和尚さん」は「猫をかん袋におしこんで ポンと蹴りゃ ニャンとなく」
「あわて床屋」の4番の歌詞は兎の耳を切り落とす内容だ。
「じゃまなお耳はぴょこぴょこするし そこであわててチョンと切り落とすーー」、これは作詞者の北原白秋が床屋で耳を傷つけられた経験から作られた歌らしい。
今なら動物愛護協会からクレームがつくことにちがいない。
ほかにも、沢山あるが昔と今とでは常識も違い、風習も違っていたことがうかがわれる。
しかし、以上のようなことはあまり気にせず、老人ホームなどで一緒に歌うお年寄りの楽しそうな姿をみていると、ながいこと歌ってきて良かったと思う。
(250518)
私のお宝
写真はビリー・ジョエルがLP “TURNSTILES” に書かれた直筆のサインである。
1983年、日本航空がニューヨーク直行便を開通したのに合わせ、ニューヨークのCBSスタジオにビリー・ジョエルをゲストに迎えTBSラジオから、一時間の生番組を放送した。
今なら、スマホでバシャバシャ写真を撮るのだろうが、まだスマホもない頃である。手元に残っている思い出は、生放送を録音したカセットテープとこのサインだけだ。
この番組の話を始めるときりがない。今回のテーマは「私のお宝」なので、この番組については放送日の7月初旬頃にでも改めて書くことにする。
ラジオの洋楽番組を主に制作していた私は、仕事にかこつけて、来日アーティストのサインをずいぶん集めた。番組のゲストに出演してもらったり、東京音楽祭の担当もやったのでスキをみては集めたサインだ。海外取材も何回か行った。 海外でコンサートを取材し、終了後に楽屋を尋ねてインタビューをする。当時から日本は洋楽のマーケットとして大きな魅力があったこともあり、ほとんどのアーティストは快く応じてくれた。そこで、インタビュー終了後に持参した色紙にサインをねだったものだ。
いつの間にか相当量のサインが集まったものの、その時の記録やメモがなく、誰のサインかは判別できなくなってしまったものも多数ある。
有名なアーティストだけでも左の写真でご紹介。
左側上から「アバ」、大プロデューサーの「ハーブ・アルパート」、懐かしい「パット・ブーン」と娘の「デビー・ブーン」が一緒にサインしてくれた、「イーグルス」の「ランディ・マイズナー」
右側上からソウルミュージックの「ドナ・サマー」、「リンダ・ロンシュタット」、カントリーミュージックの大御所「ウイリー・ネルソン」
他にも「ジョン・バエズ」、PP&Mの「ポール・ストゥーキー」、「ビレッジ・ピープル」、「リタ・クーリッジ」、「ドリー・パートン」、「ライオネル・ハンプトン」、「ケニー・ロジャーズ」等々
番組制作の現場から離れても、コンサートにはよく足を運び、単なるミーハーとして色紙を手に楽屋口などで待ったこともあった。しかし、いつの間にか入場料も高くなり、徐々に足が遠のいた。
最近は、耳も遠くなり、よほどのことがない限りコンサートには行っていない。サインに宿る思い出に浸るのが精一杯だ。
鎌倉山ミュージックデイ2025
それは、昨年10月にティーサロン鎌倉山倶楽部で初めてのソロライブをやったときだ。お客様の中に山のベースマンHさん、そして彼の仲間のSさんがいた。彼らから、「鎌倉山の色々な場所で、コンサートやライブをやるようなフェスティバルをしたいから、実現の際はNoppeさんも参加してくれよ」と言われていた。
『鎌倉山に一日中音楽が鳴り響く。』
上記二人をはじめ、音楽好きの山のオジサン達が、そんな構想を抱いて半年以上、この5月18日に「鎌倉山ミュージック・デイ2025」が実現するはこびとなった。
今年の1月から、毎月のように実行委員会が鎌倉山集会所で開かれ、徐々に具体的になってきた。私は、あまり役には立たないが、声をかけられ、スタッフとプレーヤーの一員として参加している。
鎌倉山には、音楽関連以外にも、プロデューサー、デザイナー、司会者をはじめ、各種のとても有能、且つ積極的な人材が豊富なことに驚いている。
当日音楽を楽しむことのできる会場は、「檑亭」、「ル・ミリュー鎌倉山」、「たけのこ広場」、「鎌倉山集会所」の4箇所。ジャンルも巾が広く、ボサノバ、アコースティック系、懐かしのロック、ハワイアン、クラシックなど場所と時間(上の別表)によって様々な生の演奏や歌を楽しむことができる。観覧は全て無料だ。たけのこ広場では飲食の用意もあるという。
今回、参加するミュージシャンは、なんと総勢50名を超える。
私は、ル・ミリューのテラスで午後一時から、ソロの弾き語りをする。終わったらすぐに、たけのこ広場に移動して、ロックバンド「バックル・カバー」といっしょに「鎌倉山バンド」と称して、お客様と一緒に歌う予定になっている。
開催概要には「音楽を通して新旧の住民同士の親交を深め、街の自治意識を向上させ防犯や防災に繋げる」と記してある。
小さなコミュニティではあるが、音楽を通じて鎌倉山を愛する人達の交流の一端になれば幸いだ。
<お知らせ>
私 (Noppe)のライブは、5/18(日) 午後1時 ル・ミリュー鎌倉山のテラスです。ご来場お待ちしています。
■「ル・ミリュー鎌倉山」
鎌倉市鎌倉山3-2-31
0467-50-0226
https://lemilieu-kamakurayama.com
(250504)

ライブバー
「オーシャンズ・ビート」
最近の検索エンジンは項目名を入れると、まず「AI による概要」が出てくる。
「ライブバー」を検索した結果、AIの説明は以下のようだ。
『ライブバーとは、生演奏(主に音楽ライブ)を聴きながら、お酒や食事を楽しめるお店のことです。ライブバーは、音楽を楽しみたい人や、お酒を飲みながら音楽の雰囲気を味わいたい人に人気があります。』とのこと。
ライブハウスは歌手やバンドが出演し、観客は決められたミュージックチャージを払い、客席で飲食をしながら音楽を楽しむ。「投げ銭ライブ」の時は、観客は自分の判断で値段を決め、決められた箱などに入れる。
一方ライブバーはテーブルチャージさえ払えば、特にミュージックチャージは発生しない。普通のバーと同じ様に、一杯のビールでも注文すればいい。ステージで歌う人も普通の人と同じ様にお金を払って飲食をする。演奏したい人は順番にステージに上がる。上手い下手は関係ない。自分の演奏や歌を聞いてもらえるという喜びがある。
ライブハウスは演奏者がそれなりの謝礼をもらうのに対してライブバーはお金(飲食代とテーブルチャージ)を払って演奏することになる。
説明が長すぎたが、私が唯一、時々行くライブバーが藤沢駅に近い「オーシャンズ・ビート」という店だ。お店の壁には各種のギター、ベースがかかり、パーカッション類、キーボード、ドラムス、音響機材など全て揃っている。無料でだれでも使用できる。
曜日別に音楽ジャンルの傾向があるが、私はアコースティック系の多い火曜日に行くことが多い。お客様は代るがわるステージに立つ。中には、このお店で知り合ってユニットを組んでいるグループもある。皆それぞれけっこうグレードが高い。ボブ・ディラン一辺倒の人もいれば、オリジナル曲を披露する人もいる。火曜日はどちらかと言えば和製フォーク系が多い。
ここのマスターがただ者ではない。バーテンダー、厨房に入り料理人、音響機材の調整、レジ係り、すべて一人でやり、いつも忙しそうだ。その上、合間にステージで加山雄三のヒットソングを歌えば、他人のバッキングでドラムスも演奏するというスーパーマンだ。いつもスマイルが絶えない、すてきなオジサンだ。普通のライブハウスとしてミュージックチャージの発生する日もあるので興味のある方はホームページで調べてから行ったほうが良いかもしれない。
音楽の好きな人は一度足を運んでみては如何でしょう。
■お店情報
ミュージック・ハーバー「オーシャンズ・ビート」
藤沢市南藤沢2-10 ワカバビル5F
TEL
0466-47-2347(18:00~23:00)
https://oceansbeat.jp
日、月は休業
童謡、唱歌
昔とくらべ、社会福祉関連イベントや老人ホーム、グループホームなどに乞われての出前ライブが多くなった。
木工仲間のM先輩に誘われて十年ほど前から、定例的にグループホーム等で歌い出したのがきっかけだった。
それまで洋楽一辺倒だった私もお付き合いしているうちに日本の唱歌に徐々に興味を持つようになった。興味を持てば、いろいろ知りたいことも出てくる。
まず、気がついたのは誰でも知っている童謡などが「作者不明」となっている曲が多いということだ。たとえば、「鯉のぼり」、「茶摘み」、「海」(松原とおく きゆるところーーー)、「浦島太郎」、「静かな湖畔」、「大きな栗の木の下で」、「雪」(雪やこんこ あられやこんこーーー)など、ほかにも沢山ある。
誰が作ったかわからないながら、伝承的に歌われてきた曲もある。しかし多くの曲は、明治時代の文部省が尋常小学校の唱歌集を編纂するときに、これらの曲は、全て日本人による新作だったが、当時の文部省は作詞者・作曲者に高額な報酬を払い、名は一切出さず、また作者本人も口外しないという契約を交わしたとのことだ。言ってみれば「国」が作った歌であるということを強調したかったのだとも言われている。
また、日本の歌だと思っていた曲が、外国人が作った歌という曲も意外に多い。
「旅愁」はジョン・P・オードウェイ、「埴生の宿」はヘンリー・ローリー・ビショップという人が作曲している。
さらに「むすんでひらいて」は、なんとフランスの哲学者ジャン・ジャック・ルソーが作曲した歌だと聞いてびっくりしたものだ。
なにはともあれ、ちいさなころから歌い馴染んできた曲も、あらためて歌ってみると、日本の童謡、唱歌にはとても情緒深い、素敵な曲が多い。
「ゆりかごのうた」、「おぼろ月夜」、「赤とんぼ」、「里の秋」など、私の好きな曲も多い。そんな中で、私が最も好きな曲は「ふるさと」だ。ライブなどではアンコールに会場の皆さんと一緒に歌うことも多い。日本の原風景が見事に歌いこまれている曲だ。
小さな頃、友達とふざけあいながら「兎、美味しいーーー」などと歌ったのも懐かしい思い出だ。
(250420)
悩ましきはチューニング
全ての弦楽器はチューニング(調弦)が必要だ。アコースティックギターでは、ヘッド部分にあるチューニングペグ(糸巻き)で調弦をする。これが、なかなか難しい。微妙な調整が思うようにできないことが多い。ほんの少しペグを回すのだが、なかなかピタッと合わないのである。ペグも高級なものは歯車の数が多く、微妙な調整ができる構造にはなっているのだが、それでも満足が行くまでには多少の時間が必要だ。その点、バイオリンはヘッドのペグで調整したうえで、さらに微妙な調整ができるよう、テールピースに小さなアジャスターがついている。これは優れた構造だと思う。
私は、50年もやっているので、それなりにほぼ満足したチューニングができるが、アーティストによっては、けっこうアバウトなチューニングで演奏している人も多い。微妙に狂っている演奏を聞いていると、なんとも気持ち悪いものだ。
昔は音叉でAの音を聞いてギターの5弦をあわせ、それを基準に他の弦を調整した。今は、私を含む、ほとんどの人がデジタル式のチューナーを使い、耳ではなく、目で調律している。
普通の弦楽器ならまだしも、ピアノのチューニングになるとプロの調律師に頼まねばならない。映画化もされた小説「羊と鋼(はがね)の森」(宮下奈都著)を読むと、調律師の優れた技の世界がわかる。
優れた調律師は音を合わせるのは当然として、その音の性格、響き、広がり方、雰囲気まで調整することができるらしい。
ギターに限らず、新しく弦を張り替えると大変だ。一度チューニングしてもすぐに張力によって弦が伸びる。そこでまたチューニングが必要だ。完全に伸びきるまでに、けっこうな時間がかかる。クラシックギターのナイロン弦に至っては、1週間ぐらいはかかる。
ギターやバンジョーなどはカポダストロ(通称「カポ」)を使って曲の移調をすることができるが、カポを使うと弦が押されて若干音が高くなる。そこで、またチューニングが必要になるのだが、私を含む多くのアーティストは気づいていながら、そのまま演奏してしまうことが多い。カポの位置にもよるが、せいぜい4フレットまでなら、なんとかごまかせる。私の音楽仲間でもあり我が国を代表するプロのギタリスト吉川忠英氏に、「カポ使ったら、その度にチューニングをし直せ」と言われてしまったことがある。ライブなどのステージではチューニングの間が持たないこともあり、ついサボってしまうのが実情だ。
ああ、そろそろ私のギターも弦を交換する時期だが、この悩ましきチューニングを思うと、次回のライブが終わるまでは、このままにしておこうと、怠けている。
そんなことよりも、今や私自信のチューニングが必要なようだ。
春の歌
昨日4/5に「鎌倉山倶楽部」で3回目のソロ・ライブをやった。
1月のライブを終えてすぐに、よく考えもせずに四月のライブは「春を歌う」というサブタイトルを付けてしまいフライヤーも作ってしまった。
日本人にとって、「春」は桜をはじめ、花々が一斉に咲く季節であるとともに、別れと出会いの季節だ。学校は新学期を迎え、多くの会社も新年度は4月に始まる。それなりに「春」を題材とした曲は沢山あるだろう、という勝手な思い込みだった。
確かに、童謡や唱歌には「春よ来い」「春の小川」「春が来た」など、「春」がタイトルに付いた曲は沢山ある。「花」も含めればもっと巾は広がる。老人ホームや社会福祉関連のライブならそれで良いだろう。
しかし、私のライブでは洋邦とりまぜ懐かしい歌、皆さんに馴染みの曲を約20曲歌う。とは言え、キャンディーズの「春一番」や松田聖子の「赤いスイートピー」を、いい歳をした爺が歌うのも妙だ。
結局、荒井由実の「卒業写真」やイルカの「なごり雪」他を選んだ。
英語の歌も歌いたい。だが、英語の歌で春を題材にした曲が思いつかない。手元にある資料で1955年から2015年までの全米ヒットの資料(写真)を見る限り、「SPRING」をタイトルにしたものは、たったの9曲しか無い。しかも私の知らない曲ばかりだ。そこで気がついた。アメリカ人にとっては、日本人のように「春」に対しての「喜び」、「感激」、「潤い」などは、感じないのだろう。そして、日本人のように、四季の移ろいを歌に込めるという気持ちは薄いのだろうと思った。

それでも、なんとか見つけた英語の曲はサイモン&ガーファンクルの「四月になれば彼女は」(April Come She Will)、昔の曲でパット・ブーンの「四月の恋」(April Love)、そしてビートルズの「Here Comes The Sun」。みな初めて歌う曲だ。ところが、ビートルズの曲には苦労した。曲の基本は4拍子なのだが、途中で2拍子、5拍子、3拍子と目まぐるしく変わる(写真の譜面)。何回も練習したものの本番では冷や汗をかいた。
今回のライブの選曲をしてみて、改めて日本の四季の素晴らしさを感じた。
移りゆく季節に身を委ね、花を愛で、それぞれに美味しい物を食べ、美酒に酔う。ああ、日本に生まれて良かった。
さあ、春の味覚、今夜は何を平らげるとしようか。
(250406)
ふるさとライブ
私には、いわゆる地方の「故郷」はない。敢えて言えば、生まれてから通算40年間も過ごした鵠沼海岸の家だ。
このあたり、昔は巨大な別荘が多かった。みな千坪から三千坪はありそうな広大な土地だった。我が家の目の前の「赤別荘」と呼ばれた田中家にはテニスコートもあった、近くには缶詰で有名な国分家の別荘もあった。(現在は会社の所有になっているようだ)。和洋折衷の建築が多く、ステンドグラスの窓や、大きな洒落た洋風のテラスのある家もあった。そして、大きな別荘に挟まれるような、当地としては狭い我が家の隣は三千坪にも及ぶ高橋耳鼻咽喉科があった。中には百坪ぐらいの大きな池があった。
後に、その土地に老人ホームができた。
その老人ホームに、縁あって昨年のクリスマスにグループ「WISH」のメンバーとしてライブに参加した。懐かしかった。小さな頃の思い出が蘇った。
昔の話はきりがないので、またの機会として。
この3/27、この老人ホーム「オーシャン・プロムナード」でソロ・ライブが実現した(写真)。
前半は「テネシーワルツ」「パフ」など昔懐かしい歌を数曲歌いながら、この老人ホームの前の道路には川が流れていたとか、大きな池には冬に鴨が沢山来ていたなど、このあたりの昔の話もご披露した。 後半は施設に備えてある歌集から「春の小川」「春よ来い」「花」など、春の歌を中心に入居者の皆さんと歌った。そして、この土地は私の心の故郷ということもあり「故郷」を歌って締めくくった。
入居者の中には百歳を超える元気な御婦人もいてびっくり。彼女がライブ終了後に「楽しかったわ」と言ってくださった。この一言が何とも嬉しく心に響くのです。
湘南近辺のいろいろな老人ホームやグループホームで歌ってきたが、大きなプールやジャクジーを備えているのはここだけだろう。
そして館内ギャラリーでは現在「Maihiの絵画展」を4/27まで開催中。どなたでも見ることができます。お近くの方は一度立ち寄ってはいかがでしょう。
■情報<オーシャン・プロムナード>
藤沢市鵠沼海岸2-11-17
小田急江ノ島線「鵠沼海岸」駅より徒歩6分
0120-539-056
https://ocean-promenade.com
卒業ソング
朝はラジオを聞きながら散歩をする。つい先日、さだまさしが歌う「仰げば尊し」が放送された。とても良く歌いこまれている。懐かしく聴かせていただいた。
卒業式。私は小学校と中学の卒業式は、なんとなく覚えているものの高校、大学の卒業式は、全く覚えがない。成績が悪かったせいもあるのだろうか、落第こそしなかったが、あまり学校には愛着が無かったせいもあるのかもしれない。毎日ギター持参で大学に通っていた私としては、「卒業」といえば、思い出す曲は、サイモンとガーファンクルが歌う「Sound Of Silence」、そして、この歌が挿入歌とされた映画「卒業」だ。
私と同世代の人は、卒業式と言えば、「仰げば尊し」を歌いながら、目頭が熱くなるのを覚えている人も多いのだろう。私も小学校の卒業式はそうだった。ハンカチを目頭あてながら歌っている父兄も多かった。ところが、最近の卒業式ではこの曲は歌われない。
歌詞の「思えば いと疾(と)し」や、「いざさらば」など古語みたいな難しい歌詞もでてくる。さらに今の学生たちには「我が師の恩」という考え方はないのかもしれない。また二番の歌詞「身を立て名をあげ」の部分など、立身出世を呼びかけていて、なんとなく時代錯誤と言うか、今らしくないのは確かだ。
娘の時代はどうだったのか聞いてみたら、中学の卒業式には学校(湘南学園)のオリジナルソングを皆で歌ったとのこと。
ほかの学校はどうなのだろう。ネットで調べたら、私の知らない歌が沢山歌われているらしい。せいぜい「いい日旅立ち」、「贈る言葉」、「今日の日はさようなら」、「卒業写真」ぐらいは知っているが、それも娘曰く、随分古い歌だね、と言われてしまった。
しかし、これらの曲は、年齢層に関係なく幅広く知られている曲なので、私もこの季節になるとグループホームやお年寄りの多い会場などで、皆さんと一緒に歌うことも多い。
ところで、「仰げば尊し」は永い間、作者不明とされていたが、どうやら原曲は「Song for the Close of School」という海外の曲だということらしい。
また、太平洋戦争で日本が台湾を統治していたこともあり、台湾では未だに卒業式には中国語で「仰げば尊し」を歌う学校が多いと聞く。日本で歌われなくなった曲が海外で歌われているというのも妙な気持ちだ。
さて、私の人生の卒業も、徐々に近くなっている。これは同世代なら誰でも同じだ。仕方のないことだが落第せずに無事に卒業できれば良いのだが。
さて、その時の私の卒業ソングは何にしよう。
(250323)
「空に星があるように」
1968年、荒木一郎の大ヒット曲である。
日本のフォークソング界の長老ベースマン「カッチン」こと吉田勝宣さんに、私のライブのサポートをしていただくことが多いが、そんなときに彼が歌う曲でもある。
難しい曲だ。一番と二番で、一部メロディもコード進行も違う所がある。「カッチン」はリハーサルで、時々間違えそうになるものの本番で間違えたことはないのは流石である。
最近、荒木一郎の著作「空に星があるように 小説 荒木一郎」(小学館)を読んだ。わざわざ「小説――」と但し書きがあるからには、多少の演出はあるのかもしれないが、ほぼ実話に近い彼の自伝だ。緑魔子、鰐淵晴子、大原麗子、大橋巨泉、吉永小百合、かまやつひろし、その他多くの芸能関連の人が実名で登場する。
曲「空に星があるように」は長年つきあっていた女生と別れたときにできたと、以下のように書いてある。
『別れの、この何とも言えないむなしさも、もう少し時がたてば、お互いに、ただの季節の変わり目と思えるようになるのかもしれない。
僕は、画用紙をとりあげて、浮かんでくる歌詞を書き、曲の音階をドミソのようにカタカナで記し、それが終わると、タイトルに「空に星があるように」と書き込んだ』
アンダーラインを引いたフレーズは歌詞の中にも出てくる。そして、何年か後に、この曲が彼のデビュー曲として大ヒットする。
あの頃は、シンガーソングライターという言葉はなかった。歌謡曲界で初めての自作自演のヒットとなった。
他にも彼の波乱万丈な、そして乱暴な人生について約600ページにもなる大作の本だ。ただし、ストーリーは突然に終わる。いわゆるエンディングがないのだ。この方法も乱暴な荒木らしいと思う。
放送局、映画会社、レコード会社など芸能界の裏話もでてきて、なかなか興味深い本だった。
業界人の著作を何冊か読んだことがあるが、どちらかといえば「俺が俺が」的なものになることが多い。表題の著作もその傾向は免れないが、それを置いても、なかなか面白く読ませてもらった。
荒木一郎、当年81歳、「カッチン」当年80歳、両名とも未だ業界で活躍中。
映画「名もなき者」
ウディ・ガスリー作「我が祖国」(This land is your land)、ピート・シガー作「花はどこへ行ったの」(Where Have All The Flowers Gone)、そしてボブ・ディラン作「風に吹かれて」(Blowin’ In The Wind)、といえば誰でも知っているアメリカのモダンフ・フォークソングだ。この3人と「ドナドナ」(Dona Dona)で知られるジョーン・バエズが主人公の映画「名もなき者」(A COMPLETE UNKNOWN)という映画を見た。各々に扮した役者の名演技も素晴らしい。
映画は病気療養中のウディ・ガスリーを、彼に傾倒する名もなき青年ボブ・ディランが病院に訪ねる、というところから始まる。ディランは徐々に頭角を現し、ジョーン・バエズとも生活をともにし、最後は、フォークギターをエレキにも持ちかえて観客から大ブーイングを受ける、というストーリーだ。ボブ・ディランの乱暴な性格、楽曲に対する執念など、見事に演出されている。またピート・シガーの奥様が日系人だということは、この映画で知った。

人によって好みは違うが、私は常々楽曲は美しいメロディとハーモニーが基本だと思っているので、と言うか、歌詞の内容よりもメロディを重んじる方なので、この映画に出てくる原作者の歌い方は、あまり好きではない。そうは言うものの、その歌詞の内容や歌い方にアメリカン・フォークの真髄を見たような気がする。
当時、フォークシンガーの憧れだったニューポート・フォーク・フェスティバルの出演者候補をめぐり、ピーター・ポール&マリー(以下PP&M)の名前が上がるが、主催者は、PP&Mは「軽すぎる」と評した。わからなくもないが、私はPP&Mのアレンジやハーモニーが好きだ。「風に吹かれて」をヒットさせたのはPP&Mであり、後にオリジナルがボブ・ディランということで注目を浴びた。
ウディ・ガスリーもピート・シガーも今はいない。ジョーン・バエズ、ボブ・ディランは今なお活躍している。
ついでだが、ニューポート・フォークフェスティバルは一時中断されていたものの、1985年から再開されているという。今年は7月25日か三日間開催されるらしい。
映画の最後、タイトルバックには以下のように書かれていた。
『2016年 ボブ・ディランは音楽家として初めてノーベル文学賞を受賞した。しかし彼は授賞式に参列しなかった』
いかにも彼らしい。

ムッシュを偲ぶ
私がラジオの音楽番組を中心に制作をしていた20数年間、いろいろ方々と仕事をさせていただいた。そんな中で、亡くなるまで公私ともども親しくしていただいたのがムッシュかまやつだ。
3/1は彼の命日ということもあり、改めて彼を偲ぶ。
ムッシュに頼まれて六本木にあった彼の事務所のスタッフも私が紹介した。番組の打ち合わせと称して、会社を抜け出してムッシュの事務所で油を売っていたこともよくある。そんなある日、彼から聞いた話だが、ホテルオークラの室内プールで泳いでいるとすぐ横にボサボサ髪の外国人が泳いでいる。ジョン・レノンになんとなく似ている。そこで「Are you John?」と尋ねたのがきっかけで、本物のジョン・レノンと意気投合し、そのままムッシュの事務所まで来て、話に花が咲いたという。
ムッシュの番組収録でスタジオに入たものの、待てど暮らせど彼が来ない。しかたなく自宅に電話したら本人が出てきたのには驚いたものだ。
ムッシュは、私の住んでいた鵠沼海岸の家にも時々遊びに来た。ビーチまで一緒に散歩したものだ。すぐ、近くのマンションにブレッド・アンド・バターの兄弟が住んでいることもあり、合流して酒を酌み交わしたのも懐かしい。
日本を代表するカントリーシンガー、故宮前ユキさんと三人で大山の近くまでイノシシ鍋を喰いにドライブしたこともある。八神純子さんと一緒の番組では、スポンサーの宣伝担当に私が直接話して、必要経費を出していただき、グアム・サイパンでの番組収録もした。ガン・シューティングを始めて経験した様子も収録し番組で紹介した。
辻堂にあった「リトル・ジョージ」というライブ・バーでもムッシュに出演してもらったことがある。湘南ミュージシャンの溜まり場的なバーだった。ブレッド・アンド・バターやユーミンも出演していたが、騒音問題とマリファナ関連の容疑で閉店となったらしい。
彼は、いつも新しい音楽に挑戦していた。昔のスパイダーズの曲も、あえて新たにアレンジして歌っていた。いつも進歩的な考えをするので、いわゆる「ナツメロ番組」には出演しなかった。
彼の従妹森山良子さんとも仕事をしたことがある。そして数年前に彼女の息子、森山直太朗さんのサポートとしてNHKの番組でギターとコーラスも担当させていただいた。すべてムッシュつながりの縁である。
いつもカッコいい、おしゃれなムッシュだった。
港区の賢崇寺、彼の眠るお墓には「なんとなく、なんとなく」の譜面が刻まれている。 合掌
「君が代」
2/23は天皇誕生日。昔風に言うなら「天長節」「旗日(はたび)」だ。皇居では万歳三唱がとどろき、各種の催しで「君が代」が斉唱される。
「君が代」は、大きなスポーツ大会や大型イベントの開会式などにも、よく歌われる。
私が小学生の頃、好きな科目は音楽だった。音楽の時間には得意げに大きな声で歌ったり、笛を吹いたりしたものだ。そんなある日、音楽の先生が教室に入ってくるなり黒板に向かって平仮名で「きみがよは ちよにやちよにーーー」と縦書きした。
そのあと、先生はピアノに向かい少しずつ、この歌詞を歌い出す。そして、先生のマネをして生徒も歌う。意味も何もわからず、ただ先生の歌う通りに歌った。へんな歌だなと思っていた。
私が通っていた湘南学園は幼稚園から高校までの一貫教育だ。数日後、全校の運動会が開催され、そこで生徒・先生・父兄全員で「君が代」が歌われた。音楽の先生は、この運動会に間に合うよう教えてくれたのだろう。
これが、国歌に触れた最初の思い出である。
この「君が代」、幕末は文明開化の頃、対外的に必要だろうということで、詠み人知らずの詞に、外国人フェントン(John William Fenton)が曲をつけたらしいが、この曲調が日本語に合わないとされ、後に日本人が改めて作曲。それを西洋音楽的にドイツのフランツ・エッケルトFranz Eckertに編曲してもらったものが今の「君が代」だ。以来ずっと「国歌」として歌われてきているが、正式に「国歌」として法制化されたのは、たった26年前の1999年(平成11年)のことだ。(「国旗及び国歌に関する法律」)。同時に「日の丸」も国旗として、はじめて法制化された。
「君が代」は国歌としては重厚感が漂うものの、曲調はなんとなく暗い。
「うさぎおいし、かのやまーー」と歌う「ふるさと」の方が我が国の原風景を感じて好きなのだが、やっぱり天皇誕生日にはそぐわないか!
<蛇足>
意外と知られていないが、君が代は三番まであるらしい。
① 君が代は 千代に八千代に
さゞれ石の巌となりて 苔の生すまで
② 君が代は 千尋の底の
さゞれ石の鵜のゐる磯と あらはるるまで
③ 君が代は 限りもあらじ
長浜の真砂の数は よみつくすとも
アメリカの楽器
写真は、5年ほど前に制作したサルテリー(Psaltery)という、アメリカの民族楽器だ。独特の形をした弓でこすって音を出す。ライブで2・3回ご披露したこともある。
アメリカは建国して、たった250年。日本や中国とくらべ伝統文化と呼べるものはない。しかし、音楽の分野では独特な文化が生まれ育ってきた。
ジャズ、カントリー・ミュージック(ウエスタン・ミュージック)、ブルーグラス・ミュージック、モダンフォーク・ソングがその代表だろう。
ヨーロッパからの移民やアフリカから連れてこられた奴隷などに、その起源があるが、興味深いのは、歴史の浅い国にしては、アメリカ音楽ならではの独特の楽器が沢山生まれたことだ。
ヨーロッパから伝わったギターもアメリカに渡り、ガット弦(ナイロン弦)ではなく金属弦を張り、三角のピックで演奏するように改造され、今のフォークギターが誕生した。さらに12弦ギターも生まれた。
そのフォークギターに共振する金属板をつけた「ドブロギター」も生まれ、さらに、「ドブロギター」を改良し「スティール・ギター」が生まれた。ポワ〜ンとした響きはハワイアンやカントリー・ミュージックでおなじみだ。

同じくヨーロッパから伝わったマンドリンは、背板のイチジクのような膨らみを取り払い、平板にした「フラットマンドリン」もブルーグラスミュージックで多用されている。
デキシーランド・ジャズやカントリーミュージックで多用されるバンジョーもアメリカならではの楽器だ。ほかにもダルシマーやオートハープもある。
面白いことにバイオリンはカントリー・ミュージック界ではフィドル(fiddle)と呼ばれている。
ここまでは、比較的素朴なアメリカ楽器についてだが、その後アメリカに生まれ、世界中に広がった楽器はエレキ・ギターだ。そしてビートルズも、ベンチャーズも生まれた。
私のギターもベンチャーズのコピーから始まった。
しかし歳のせいか、最近は徐々に電気から遠ざかりアコースティックならではの響きに傾倒している。
バーボンウイスキーを舐めては、下手なギターを爪弾く。独りよがりの私の好きな時間でもある。
懐古爺さん
ダンスの思い出
大学生の頃、300円や500円でパー券(※1)を買って、ダンパ(※2)によく行ったものだ。会場は、町の公民館やホテルなどのガラーンと広い宴会場のような所が多かったような気がする。慶応なら「ライトミュージック・オーケストラ」、早稲田なら「ハイソサエティ・オーケストラ」といった学生のビッグバンドの演奏に合わせ、踊った。
ガールフレンドと一緒に行ってもいいし、会場で、「これぞ」という女の子に声をかけてもいい。どの会場にも「壁の花」的な女の子がいたものだ。
音楽は、ほとんどがアメリカのアップテンポのジャズ。ダンスはジルバができれば良い。時間がすすんでくると、会場の照明が少し落とされ、曲はスローになる。お待ちどうさま、チークダンスのお時間です。ラストナンバーは三拍子のワルツだ。ワルツは社交ダンスで言うボックスで踊るのが本来だが、殆どそのままチークダンス継続。
薄明かりの中、壁の花子さんとのチークダンスが終わると、急に会場の照明が明るくなる。我に返り、白け気味に改めて相手の顔を見れば、「あら、こんな人と踊っていたのか」と、ちょっとガッカリすることもあれば、とても可愛らしい娘だったこともある。
その後ダンスも変わった。エレキバンドにあわせ、サーフィンダンス、ゴーゴーダンス、ドドンパなんていうのも流行した。チャビー・チェッカーの歌うヒットに合わせ「ツイスト」というダンスも大ブームになった。
その後のバブル期には六本木や赤坂を中心に多くのディスコティックが生まれた。放送局で音楽番組を担当していた私は、タレントさんとよく行ったものだ。お寺の坊さんも、相撲取りも来ていた。何故かモスコミュール(※3)を飲んでいる女の子が多かった。
最近はディスコと言わず、「クラブ」というらしい。「ク」ではなく「ラブ」にアクセントがつく平板読みをしなければいけない。
ダンスをする場所も、ダンスの種類も、音楽も時代とともに変わった。テレビで目にするダンスは、曲芸のようなダンスさえある。
懐古爺さんが、昔のテレビで見たダンスの思い出は「中野ブラザース」のタップダンス、そしてダンスをしながら指揮をする「スマイリー小原とスカイライナーズ」だ。
若い人は知らないだろうな! 楽しかったんだよ!
※1 パー券:パーティ券
※2 ダンパ:ダンスパーティ
※3モスコミュール:
ウォッカ、ジンジャーエール、ライムで作るカクテル。
【作り方】
1.氷を入れたグラスにウォッカを注ぐ
2.ジンジャーエールでグラスを満たし、軽くステア
3.カットライムを飾り、完成
「悲しくてやりきれない」
佐藤愛子の長編小説「血脈」を読了した。文庫本、(上中下)3冊、計約二千ページにも及ぶ小説だ。遅読の私、昨年暮れから読み出し、つい最近、やっと読み終えた。
この小説を読みはじめたのは、作詞家サトウハチローについて知りたかったのがきっかけだ。著者の佐藤愛子はサトウハチローの異母妹にあたる。
私が、弾き語りライブで時々歌う「悲しくてやりきれない」という曲がある。加藤和彦作曲、サトウハチロー作詞のこの歌の歌詞(※後記)は、とても切なく、寂しく、辛く心に響く。しかし、表題の何が「悲しくて」、なにが「やりきれない」のか、具体的にはなにも書かれていない。作詞の根拠となったのは、いったい何なのか、知りたかった。
この小説に、佐藤家の波乱万丈な血筋、家系については、こと細かに書かれているものの、この詩「悲しくてやりきれない」については、残念ながら一行も触れていなかった。
小説なので、もちろん全てが真実とは言えないかもしれないが、女性問題、金銭問題、薬物に溺れる血脈が、とうとうと記されている。
それによれば、ハチローの下には三人の弟がいるが、次男は広島の原爆で死んだ。三男は兵隊に志願しフィリピンで戦士している、四男は一九歳で女と心中している。三人とも、その影には女がいる。
彼は、この弟たちの無惨・無謀な「死」に対し「悲しくてやりきれない」と詠ったのではないかという思いに至った。
彼は、他にも沢山の童謡や唱歌を作詞している。「リンゴの唄」「小さな秋みつけた」「誰かさんとだれかさん」「うれしいひなまつり」「おやまの杉の子」など、ほとんどが誰でもしっている情緒豊かな詩だ。
ただ、この「悲しくてやりきれない」だけが、他の作品とは性格を異にするものの、私はこの詩に漂う寂寥感が好きだ。私の弾き語りライブのレパートリーとして、いつまでも歌い続けたい曲となった。
「悲しくてやりきれない」
胸にしみる 空のかがやき
今日も遠くながめ 涙をながす
悲しくて 悲しくて
とてもやりきれない
このやるせない モヤモヤを
だれかに 告げようか
白い雲は 流れ流れて
今日も夢はもつれ
わびしくゆれる
悲しくて 悲しくて
とてもやりきれない
この限りない むなしさの
救いは ないだろうか
深い 森の みどりにだかれ
今日も風の 唄に しみじみ嘆く
悲しくて 悲しくて
とてもやりきれない
このもえたぎる苦しさは
明日も 続くのか
ハーモニー
音楽はメロディとリズムが基本だが、そこにハーモニーが添えられると、とても素敵になる。ギターやピアノは、メロディを引きながら、そこに和音(コード)を同時に添えられることができる便利な楽器だ。私のギターは自己流で下手なので、歌に合わせてギターではコードだけを弾く。
俗に言うオールディーズやカントリーソング、フォークソングなどの多くは3和音だけの簡単なコード進行が多いが、ジャズや最近のヒット曲などには複雑なコードが多く使われる。
和音は1度、3度、5度、たとえばドミソの和音が基本だが、そこに、もうひとつの音が加わると、雰囲気がかわる。不協和音とも呼ばれるが、その和音によって悲しくも、楽しくも、いろいろな演出ができる。
私が組んでいたグーループ「ザ・モダンフォーク・フェローズ」はボーカルが4人編成だった。そこで3和音に加え、もう一つの音程を加えて4パートハーモニーを得意としていた。ところが、これがけっこう難しい。なかなか4つの音が調和しない。あーでもない。こーでもないといろいろ試行錯誤した結果、その和音がピッタリと合ったときは、ゾッとするほど気持ちよかったものだ。
昔のフォー・フレッシュメンやマンハッタン・トランスファーなど有名なジャズヴォーカルグループのハーモニーを聞いているとうっとりとしてしまう。オーケストラやジャズのビッグ・バンドは、多くの楽器が調和して一つのハーモニーを奏でる。
このハーモニー、音楽の世界だけではなく、生活のあらゆる面で必要なことだと思う。友達や家族と「気が合う、合わない」もハーモニーだ。不協和音が目立つ最近の世の中、トランプさんはどんなハーモニーを奏でてゆくのだろう。
チャリティ・ソングに思う
1985年、アフリカの飢餓と貧困層を解消する目的で作られた曲 “We Are The World” はチャリティ・ソングの代表と言ってもいいだろう。ハリー・ベラフォンテの構想をもとにマイケル・ジャクソンを始めアメリカのみならず当時の世界のポップス界を代表する45人が参加した。当時シングル、LP、ビデオなどを含め計6,300万ドルの収入となり、すべての印税はチャリティーとして寄付された。当時の為替を調べると、$1=¥242だったので、150億円以上にもなる。
一方、日本でのチャリティ・ソングの代表には、2011年3月11日に発生した東日本大震災の復興支援ソング「花は咲く」がある。
作詞、作曲、出演、など全て宮城県、福島県、岩手県にゆかりのあるタレント、歌手などによって発表された。当時、私はロスアンゼルスで開催された復興支援コンサートにも参加した。難しい曲だった。
この曲の著作権料がすべて支援金として寄付されたが、その金額は3千万円に届かなかった。
“We Are The World”と「花は咲く」の違いは何だろう。それは発想した人、俗に言う「ツバつけ役」の違いだと思う。
“We Are The World”はハリー・ベラフォンテ、未だにアメリカ音楽界では一目置かれる大物アーティストによる呼びかけ、一方「花は咲く」はNHKの仕切りによるキャンペーンである。
“We Are The World”はシンガーも演奏者も、契約レコード会社やプロダクションの壁を超えての作品だ。しかも全員がスタジオに結集しての作品である。これは日本では無理だろう。一方「花は咲く」はNHKが個々にお願いして賛同したアーティストがバラバラに録音・録画したものを編集したものだ。ここに日米の音楽界の力の差、認識の違いがあると思う。
その後、世界的なコロナの感染、国内では能登半島地震にも、音楽家としてこのような動きがないのは、なんとも残念だ。
私は、東日本大震災のあと仙台で復興支援ライブに参加した。すすきが風に揺れる隙間に沢山の土台だけが残されている景色が忘れられない。アーティストの端くれとして、今でも時々「花は咲く」を歌っている。あの茫洋とした平原をおもいだしながら。
坂本龍一
久しぶりに映画を見た。と言うよりコンサートを見たとも言える。「Ryuichi Sakamoto/ Playing the Orchestra 2014」と言うタイトルの映画だ。
私が初めて坂本龍一を知ったのは1970年代後半、YMO(イエロー・マジック・オーケストラ)のコンサートだった。私は当時、ラジオの洋楽番組の制作を担当していたこともあり、彼らのアルバムをリリースしたアルファ・レコードの招待で聞きに行った。当時で言うテクノ・ミュージックには興味が持てなかった。ステージでメンバーの坂本はシンセサイザーをあやつり、何をしているのかわからなかった。妙な音楽を聞いたな、という印象だったが、その後このグルーが世界の注目を集めるとは思わなかった。
さて、映画の話にもどる。
先日、アメリカで娘が参加する現代音楽に二度ほど触れ、なんとなくこの種の音楽が気になっていた。聞いていると、なんとなく映画のシーンを思わせるような音楽とも感じた。それがきっかけで、映画「ラストエンペラー」で日本人ただ一人アカデミー作曲賞に輝いた坂本龍一が気になっていたことが、今回の映画に足を運ぶきっかけになった。近所では、上映されていない。仕方なく恵比寿ガーデン・シネマまで出かけていった。
映画の内容は単純に二時間のコンサートの再現だけだ。音楽映画にありがちな、余計な解説やインタビューなどは一切ない。東京フィルハーモニック交響楽団の指揮をとりながらピアノの演奏もする坂本や演奏者の表情、ハープやパーカッションの一瞬の動きを捉えるたくみなカメラワークに圧倒された。恥ずかしい話だが、もし実際にサントリーホールで私がこのコンサートを聞いたら、これほどの感動はなかったかもしれない。
知っている曲はアンコールで演奏された「戦場のメリークリスマス」だけだったが、現代音楽、映画音楽をはじめ坂本の作品、全17曲に魅了された。
ただ残念なのはタイトルをはじめ、字幕も英語、最後に流れるタイトルバックもすべて英語だ。とても私の目では追いついていくことができなかった。そしてプログラムも販売されていなかった。すべては海外での上映を意識していると思われる。さらに残念なのは、広い劇場にお客様はたった十人程度だった。これではロングランはないだろう。
坂本龍一も、YMOのメンバーだった高橋幸宏も逝ってしまった。帰宅して夜おそく、やはりYMOのメンバーだった細野晴臣の「Smile」をYouTubeで聞いた。素敵な音楽に触れた一日だった。
初めてのTVer
なんだか、世の中AIとかデジタルとか複雑怪奇になってきて、とても追いついていかれない。自分のホームページだけは、なんとか続けているが、他はせいぜいLineとメール、Face Bookぐらいが精一杯だ。そんな折、止むない事情で、初めてTVerを体験することになった。
きっかけは、テレビ番組の録画セットを忘れたことだ。毎年クリスマスの夜はTBSテレビの「クリスマスの約束」を見るが、今年は、すっかり忘れていた。気がついたのは12/26だった。なんとも残念だ。なんとか見ることができないものか、ネット検索で調べたら、TVerで見ることが出来るらしい。テレビの(J-COM)リモコンをよく見たら「TVer」と書いたボタンがあるではないか。いままで触ったこともない。さっそくゴチャゴチャと探りながら、なんとか目的の番組を見ることができた。なにやら他の方法でも見られるらしいが、このTVerは無料らしい。
さて、この番組「クリスマスの約束」、小田和正が中心となり毎年多くのアーティストが参加する。今年の第一部は2009年に放送された番組を特集している。暑い夏から構想を考え、彼自身が多くのアーティストに声をかけ、何度ものリハーサルを繰り返し、22分50秒もある曲を完成させた。そのタイトルも「22‘50“」とした。フォークシンガーからニューミュージック、J-POPまで、多くの人気アーティストが合唱する。感激に目頭があつくなった。
出演したアーティストは鈴木雅之、松たか子、山本潤子、夏川りみ、財津和夫、佐藤竹善、JUJU、などきりがない。(演歌歌手は参加していない)
他の音楽番組で見ればつまらないと思う若い歌手も、この番組を見て、改めて彼らの歌唱力や表現力の素晴らしさを感じることもできた。
小田和正の構想と人脈、編曲者、演奏者、プロデューサー、そして多くの歌手とスタッフが一体となれば、このような素晴らしい音楽番組ができるのだ。
毎日のように放送されている下らない音楽番組、バラエティ番組とは桁違いだ。初めてのTVerを試してみてよかった。
各局恒例の年末番組が気に入らない、私のような偏屈爺はぜひともTVerで優れた番組を探してみてはいかがだろう。
クリスマス・ソング
このホームページで私のライブの予定ページを見ていただければわかるが、最近は老人ホームやグループホームでの弾き語りが多くなった。 私にような程度の弾き語りでも、ありがたいことに12月は、毎年いろいろなところから声がかかる。ソロもあればグループでのライブもある。
当然のように、12月に入れば歌う曲目はクリスマス・ソングが中心になる。
しかし、有名なクリスマスソングは、ほとんどが外国の曲だ。
キリスト教の祭事なのであたりまえといえばあたりまえだ。ソロライブなどで皆さんに聞いていただく場合はそれでも良いが、施設等で入居者の皆さんと一緒に歌うには英語の歌詞は難しい。かといって、日本語で歌えるクリスマス・ソングはとても少ない。無理やり日本語の歌詞をつけた曲もあることはあるが、その歌詞が浸透していないので老人には歌いづらい。その代表格が「ジングルベル」だ。英語ならだれでも知っているものの、これと言って決まった日本語訳がない。日本語でおなじみのクリスマス・ソングは「聖しこの夜」「赤鼻のトナカイ」「もろびとこぞりて」ぐらいなものだろう。日本産のクリスマスソングでは小林亜星さんが作曲した「あわてんぼうのサンタクロース」ただ一曲のみである。
もちろん歌謡曲の世界では山下達郎の「クリスマス・イブ」や松任谷(荒井)由実の「恋人はサンタクロース」など沢山あるが、歌うのは難しい。老人ホームなどで入居者の皆さんと合唱するような曲ではない。
クリスマスでの弾き語りの参考に、クリスマス・ソングの歌集を持っているが、やはり皆で合唱できるような曲は少ない。そして、この種の本に「アメイジング・グレイス」がクリスマス・ソングとして掲載されていることが多いが、なんで奴隷商人を題材とした歌がクリスマス・ソングとして載っているのか不思議である。
まあ、いろいろ屁理屈は置いて、私の一番好きなクリスマス・ソングは「The Christmas Song」という曲だ。定冠詞「The」がついていることもあり「これぞクリスマス・ソング」という感じがする。初版のナットキング・コールのヴァージョンは秀逸だ。
さあ、今晩(12/22)は、うどん屋でクリスマス・ライブ、そして明日(12/23)はグループ・ホームでのライブが控えている。今年最後のライブだ。

親バカが聞いた
現代音楽
カリフォルニアの娘一家は、まさに音楽家族である。娘はパーカショニスト、夫はトロンボーン奏者と吹奏楽指揮者。8歳の孫はコーラスとピアノのレッスンを受けている。
巨大なガレージに車は入っていない。そこには、2台のマリンバ、7つのティンパニー、ドラムセット、などが所狭しと鎮座する。居間にはケースに入ったトロンボーンがいくつも転がっていて、つまずきそうだ。夫婦それぞれプロ奏者として活躍する一方、学校での先生と個人レッスンなどに忙しい日々を送っている。しかし夫婦とは言え、音楽の指向するジャンルは違う。
娘は現代音楽に傾倒、私は今回の旅でも2回現代音楽に触れる機会があった。
現代音楽、なんとも抽象的且つ前衛的な難解な音楽だが、聴いているうちに私も、ほんの少しだけその良さを感じるようになってきた。
このジャンルはCDなどで聞く気はしないが、コンサートなどで実演を聞くと、なんとなく魅力が伝わってくる。
リハーサルでは、娘のパーカッション、声楽、そしてハープの3人のユニットを聞いた(写真)。参考に楽譜を見てみたが、なにやら見たことのない記号や、小さな字で楽譜上の何箇所にも説明書きがある。作曲家の指示だとのこと。
全員プロのこのユニット、このような複雑怪奇な音楽をたった一回のリハーサルで本番に臨むという。
別のコンサートでは、チェロとマリンバのユニットを聞いた。このコンサート、会場はけっして綺麗とは言えないがとても雰囲気のある昔の倉庫のような建物のなかで行われる。これも現代音楽ならではなのだろうか。けっこうお客様も多く、ほぼ満席だった。
聞いているうちに、なんとなく私の頭の中に映像がよぎってきた。そういえば映画では、シーンにあわせ、知らぬ間に現代音楽を聞いていたことに気がついた。考えてみれば、坂本龍一も映画音楽で現代音楽を担当している。
現代音楽は、演奏者同士のタイミング、摩訶不思議な和音など、演奏している人が一番楽しいだろうと感じた。かといって自分が体験しようという気はない。私はせいぜい4/4拍子、3コードで楽しむのが精一杯というところだ。
アメリカでライブ弾き語り
今回のアメリカの旅を計画していた時に、当地に住む義妹から「私の住む小さな町のワイナリーで歌うことになるから、そのつもりで来い」、との連絡があった。しかし、いったいどのような会場でやるのか、もしや誰かと一緒のジョイントになるのか、ソロで歌うのか、誰かの伴奏だけすればいいのか、全く分からないまま渡米することに。重いギターを持っていくのは面倒なので、現地で娘の夫のギターを借りることとし、愛用のピックやカポダスト、チューナーなどは持参した。
そして、11/7の夜、なんの説明もないまま車に乗せられて会場に向かう。場所はMURPHYSという町のBoyle MacDonald Winesというワイナリーのテイスティング・バーだ。
表通りから横に入ったすぐの階段を上がる。ドアを開けたとたんに大勢の人のざわめきが耳に飛び込んできた。ラフな格好の約百人ほどの人がワイン片手に楽しそうに飲んでいる。いろいろな人を紹介されるが、とても名前など覚えてはいられない。そして、このワイナリーのオーナーが義妹の知人で今晩はサンクスギビングデイの前夜祭だということが、やっと判明。私も好きなジンファンデルのワインを頂く。
7時からバンドの演奏がある予定と聞いていた。しかし、4人編成(ギター、ベース、パーカッション、ヴォーカル)のバンドが来たのが7時。ゆっくりとセッティングをしている傍らで小顔の可愛い女性のヴォーカリストを紹介された。彼らは、事前に私が参加することを知らされていたらしい。簡単な打ち合わせでやっと実態が判明。
彼らがワンステージやったあとで私が歌うことに。なんとなく安心半分、緊張半分。彼らの演奏が実際に始まったのは7時半を過ぎていた。いわゆるパーティバンド、なかなか上手だ。とくに紹介された可愛い子ちゃんのヴォーカルはジャニス・ジョプリンを彷彿させる、ちょっとハスキーな声。ビートルズやCCRの曲などに合わせ、大勢のお客様もリズムにあわせ体をうごかし、けっこう乗っている。
約10曲ほど歌ったあと、私を紹介される。ロックのあとに如何なものかとは思ったものの、いきなりTake Me Home Country Road(故郷に帰りたい)を歌い出すと、ほぼ全員が、立ち上がりグラス片手に一緒に大声で歌ってくれた。いろいろ心配したが、10時近く、無事になんとか終了。
歌い終わった途端にいろいろな人から声をかけられたが、苦手な英語で訳わからず!(おお恥ずかし!)
ステージに上るまでは緊張していたので、ワインも1杯だけに控えていたが、さあこれから飲もうとした時に、義妹から「さあ、もう遅いから帰ろう」、と言われ、ほぼシラフのまま仕方なく会場をあとにする。
義妹マネージャーには逆らえない、とはいえ、とても良い経験をさせてもらった。
小さな町で歌った小さな思い出だ。
思い出の日本武道館
リハーサルがはじまる。巨大なステージに上がり、まずトシがドラムスのスネアを勢いよくパ〜ンと叩く。そのとたん、会場内のいろいろな方向からパ〜ン、パ〜ン、パ〜ンとこだまのように残音が響く。ビビった。こんな残音の中で無事に歌いきれるだろうか?
昭和42年11月18日、当時大学3年生、はじめての武道館出演の印象である。
慶応大学の文化祭ともいえる「三田祭」の前夜祭が、ここ武道館で開催された。
慶応大学に縁のあるミュージシャンが多く参加する。私達「モダン・フォーク・フェローズ」にも声がかかり一世一代のステージとなった次第だ。
「ダークダックス」、「ワイルドワンズ」も出演したことは、なんとなく覚えている。もしかしたら、加山雄三のバックバンド「ランチャーズ」、YMOの高橋幸宏のお兄さんが所属していた「フィンガーズ」、フォークソングの先輩バンド「フォー・ダイムス」も参加したのだろうか、記憶は定かではない。
あのビートルズも出演した巨大なステージだ。我々はいったい何を歌ったのだろうか。当時、ラジオには度々出演していたものの、まだレコーディングはしていない頃だ。きっとPP&Mのレパートリーでも歌ったのだろう。
私は、ただ「武道館で歌った」という記憶しかない。きっと興奮のあまりに、ほかのことは一切忘れていたのだろう。
ところが、最近メンバーの一人が、そのときの記念のペナントを持っているという。そのような記念品が存在していることすら覚えていない。さっそく、当時のメンバーと一献やりながら、そのペナントのご披露となった次第である。慶応のカラー、ブルー、レッド&ブルーに色分けされたペナント、壁に飾るには、なんとなく抵抗のあるデザインだが、日本武道館に出演したという証には違いない。
※このページを更新してすぐに、ペナントを保管してくれていたメンバーからLINEが入った。
以下、原文のまま。
『当時、前夜祭の出場バンドを決める為のコンテストが開かれ、広い階段教室で出演希望のバンドが教壇で次々と歌い、私達は運良く人気投票で1位になったみたいでしたね。』
ということらしい。
どんぐりの思い出
この季節、散歩に出れば沢山のどんぐりが落ちている。多くのどんぐりは車に轢かれペシャンコになっている。歌にあるようにコロコロころがって谷にでも落ちれば、また実生となって育つのに。
あの小さなどんぐりが芽生え、何年か後には見上げるような大木に育つことを思うと自然の凄さを感じる。
小さい頃は「どんぐりの木」という名前の木があるのだと思っていた。どんぐりもよく見れば、大きいもの、小さいもの、細いもの、太いものなど色々ある。みな違う木の種だ。
私はグループホームで歌うようになるまで「どんぐりころころ、どんぐりこーー」、と歌っていた。正しくは「どんぐりころころ、どんぶりこ」ということを知ったときはびっくりした。60年以上も思い込んでいた歌詞は正しくなかった。よく考えれば、次の歌詞「お池にはまって さあたいへん」につながるのは、やはり「どんぶりこ」なのだろう。
この「どんぐりころころ」の歌には、にがい思い出がある。
小学校低学年の頃だろう。学芸会で、私はどんぐりになった。同じクラスの何人かが、先生のピアノに合わせてこの曲を歌い始めると、私は舞台の下手から上手までごろごろと転がるだけという役だった。ドジョウや、もうすこしマシな役にはついていれば、見に来ていた母も喜んだだろうに。 当時の私は、とてもデブだったので、先生はこのドングリ役を私に振ったのだろうか。なんとなく恥ずかしかったことを覚えている。
ストーリー性のあるこの曲だが、二番はドングリ少年が故郷を思い泣く、というところで終わっている。泣いて終わるのはかわいそうと、後に三番の歌詞が作られ、ハッピーエンドとなった。近い内にグループホームで、以下の三番も歌ってみようと思っている。
(三番)
どんぐりころころ 泣いてたら
仲良しこりすが とんできて
落ち葉にくるんで おんぶして
急いでお山に 連れてった
八小節の世界
以前にも書いたと思うが、毎月藤沢市の某グループホームで入居者の皆さんと大きな声で唄を歌っている。この10月で140回にもなった。コロナで行かれなかった2年間を除いても10年以上となる。
この季節になると「赤とんぼ」「旅愁」「里の秋」など、歌いたくなる曲が多い。日本の童謡、唱歌には季節を歌いこんだ素敵な曲が多い。
グループホームでは、歌と歌の間に、お喋りをしながらの弾き語りなので、その曲の内容や、曲にまつわる話も事前に用意する。
例えば、私の好きな「赤とんぼ」について、調べれば調べるほど、深いものがある。作詞の三木露風が幼い頃の実話を歌にしたものだ。ネットで調べれば、沢山掲載されている。論争もあれば、熱弁を振るっている投稿もある。興味のある人は是非のぞいてみると良いだろう。
この「赤とんぼ」わずか八小節の曲だ。これほど短い曲に、幼い頃の思い出や情感、景色までが歌いこまれている
調べてみると八小節の童謡・唱歌は以外に多い。「赤とんぼ」のほかにも「ぞうさん」「待ちぼうけ」「赤い靴」「揺籃(ゆりかご)のうた」「十五夜お月さん」「どじょっこふなっこ」「メリーさんの羊」「黄金虫」など、すべて八小節の曲だ。「ペチカ」に至っては、たった六小節で一曲になっている。短い曲だからこそ、歌うのもやさしく、覚えやすいのかも知れない。
童謡や唱歌以外にも加藤登紀子さんの「ひとり寝の子守唄」は八小節だ。
これほど短い曲でも、日本の原風景、季節、日本ならではの庶民の生活などがみごとに歌いこまれている。
話は変わるが、たまには今の歌も知らないと、と思い、たまにテレビの音楽番組を見るが、我慢して見ていても心に訴えかけてくれる曲は皆無だ。最近はダンスやテレビ映りが良くないと流行らないようで、覚えにくく、旋律も難しい。美しい曲がない。イントロ(前奏)だけで12小節以上ある曲も多い。そしてやたら長い。
映像優先とコンピューターミュージックの弊害だ。
たった八小節で、あれほど素晴らしい世界が描けるのにと思うのは、ジジババの時代錯誤なのだろうか。いや、そんなことはない。Simple Is The Bestなのである。
アコースティックな響き
鎌倉山の信号、地元では皆「ロータリー」と呼んでいるが、そこには昔ながらの焼物の赤いポスト、公衆電話ボックスに並び、小さなティサロン「鎌倉山倶楽部」がある。そこには毎夕のように、ご近所の方々が集っては楽しそうに過ごしている。まるでパリのサロンのようにコーヒー一杯、ワイン一杯で、ご近所同士の交際の場となっている。
開発がすすむ鎌倉山だが、ここに集う人は永年住んでいる人が多いのも魅力だ。
私は、10/19土曜の午後、その「鎌倉山倶楽部」でソロライブを開催した。駐車場もないので、ご近所の方だけが集う。小さな店内には20名以上の方が来てきただき満員となった。
今回は、久しぶりにアコースティック・ライブとした。俗にアンプラグド (Unpluged)と言われているが、マイクやギターアンプなど一切の電気機材を使わず、ギターそのものの音色と地声での弾き語りとなる。
通常はサポートメンバーのキーボードやベースなどが入ることもあり、マイクやミキシングアンプを使い、バンド全体の音のバランスを調整したり、声は電気的に加工し、エコーをかけたりして聞きやすくするものだが、今回はそういうわけにもいかない。ギターと声のボリュームも歌いながら自分で調整する。聞かせどころは、わざと小さな声で歌ったり、ロック調の曲では大きめにギターを弾いたりすることになる。
歌いながら、喋りながら、隅の方のお客様まで声が届いているのか心配しながらのライブだった。結果、ギターの生音が良かったと言っていただける方がいたのは嬉しいことだ。概ね成功というところだろう。
やっぱり、アコースティックの響きは良い。クラシック音楽以外では、楽器の生音を聞く機会は少なくなった。グランドピアノでさえマイクを通す時代だ。会場の広さや種々の条件もあるが、改めて今後も生音を大切にしていきたいと思う今回のライブだった。この機会を与えていただいたお店のオーナーとママ、そして多くのご近所の方々にこの場を借りて厚く御礼申し上げます。
